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選択的夫婦別姓の話 [社会]

wedding_fufu_bessei_couple.png選択的夫婦別姓(法律用語では別姓は別氏と言うらしいが)を容認すべきか、先日の自民党総裁選や今月の衆院選で争点の一つに上がっている。夫婦別姓制はずっと以前から、話題に浮かんでは消えるサイクルを綿々と繰り返してきたが、進展はない。そのうち永遠の未解決イシューとして殿堂入りするかもしれない。

世界的には、夫婦別姓を法的に制限する国は少ないとされる。個人的に面白いと思うのは、スペイン語圏の姓の決め方だ。結婚しても姓は変わらず、子供は父と母から苗字(それぞれの父方の姓)を受け継ぐ。ガブリエル・ガルシア=マルケスという名があれば、ガブリエルが名、ガルシアが父方の姓でマルケスが母方の姓だ。彼が成長して結婚し子供が生まれると、「ガルシア」と妻の姓が共にその子の姓となる。まるで、父母から半分ずつ授かった遺伝子を次世代につないでいく生命の連鎖を家系樹で可視化しているようで、美しい。ミトコンドリアのDNAが母性遺伝するのと対照的に、姓は父性遺伝する。

必然的に、スペイン語圏では親の姓と子供の姓が半分しか一致しない。日本の夫婦別姓を巡る議論の中で、別姓は家族の「一体感」を損ねるという問題提起がある。夫婦どころか親子でも苗字が統一していないスペイン語圏の人々にもし意見を求めたら、たぶん質問の意図すら分かってくれないのではないか。そもそも親子や兄弟同士を苗字で呼び合うことはないから、父が佐藤で母が鈴木だったからと言って「一体感」に特段の不都合はない。もし著しく一体感を欠く家族がいるとしたら、それはおそらく家庭内の人間関係に何らかの課題が存在するのであって、苗字を統一してみたところで何も解決しない。

「一体感」論者の中には、夫婦別姓は個人主義を加速させ離婚率を上げる、親の離婚が子供を不幸にする、などと心配の種が尽きない人もいるようである。ちなみにステイホームが続き家族の「一体感」がかつてなく増した昨年は、離婚相談件数が急増したという話だ。一体感の欠如よりも、過剰な一体感へのプレッシャーの方が、深刻な家庭不和を誘発しやすい。不和が臨界に達しながらコロナで経済が冷え込んでいるせいで離婚を断念した場合(実際に相談件数と裏腹に離婚率は減った)家庭内のストレスは超臨界状態のまま推移することになる。離婚が解決になるかどうかは別として、親が離婚「しない」ことがむしろ子供を不幸にすることもある。現実の家族が直面する問題は複雑で重層的で、「一体感」論者が夢想するお伽話のようにはなかなかならない。

夫婦同姓を好意的に受け入れている人のほうが多数派だ、という主張を展開する人もいる。それならそれで、選択的夫婦別姓制と矛盾はしない。別姓も同姓も当事者の好きなように決めてよいわけだから、誰の権利も侵害していない。しかし世界が自分の意に沿わない方向に変質していくと感じる時、誰しも多かれ少なかれ落ち着かない気分になる。それを静かに受け入れる人もいれば、自分の世界観を守るために他人の権利を制限しようとする人もいる。問題が「伝統的価値観」と結びついている場合、往々にして社会は後者を容認する。自分の価値観にこだわるのは自由とは言え、周りの世界まで同じ色で染めようとしなくてもいいのに。

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