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返品天国のクリスマス [海外文化]

shopping_black_friday.pngアメリカでブラックフライデーと言えば、感謝祭(Thanksgiving)に続く大セールの日である。11月の第4木曜日、親族が集まってターキーを食べながらテレビでまったりとアメフト観戦するのが感謝祭の王道だが、その翌日は早起きして開店と同時に超特売品めがけて突っ走る。Black Tuesdayなら1929年の大恐慌を象徴する株価大暴落の日だが、火曜日が金曜日に代わるだけで意味合いがガラリと変わるのが面白い。フライデーの方のブラックとは、セールが繁盛して店が黒字になるからということだ。いつ頃からか、日本でもこれにあやかってブラックフライデーを謳うセールをよく目にするようになった。本来は感謝祭とセットのはずだから、セールだけぶち上げるのは単なる便乗商法のような気がしないでもない。

自分ですっかり忘れていたが、以前のブログ『コロラドの☆は歌うか』復刻企画を不定期でやっている。今回は第3弾として「返品天国のクリスマス」を再掲しようと思う。ブラックフライデーのCMを見ていてふと思い出した、米国滞在時のささやかなエピソードである。



小さい頃クリスマス・プレゼントといえば、欲しいおもちゃを一つだけ選んでサンタさん (か両親かは結果論上どうでもよろしい)に託したものでした。私の小学生時代は家庭向け電子ゲームが出回り始めた頃で、友達が持っていたインベーダーゲーム(死語)欲しさに狂おしい日々を送り、12月25日の朝ついに枕元にゲームの箱を発見した嬉しさはとても言葉では言い表せません。日本に比べキリスト教の浸透度が遥かに強いここアメリカのクリスマスは、もちろん年間を通じ最大の祭典の一つであることに変わりはありませんが、 商業化の徹底度においてもまた他の追随を許さぬ凄まじさがあります。クリスマスに先立ち一ヶ月に渡って繰り広げられるクリスマス商戦はエスカレートの一途を辿っています。その火蓋が切って落とされる感謝祭翌日には、大手スーパーが軒並み大セールに打って出ることがもはや伝統と化し、品数限定の目玉商品を狙って朝の5時から人々が列を作ります。

渡米した年の12月25日、知り合いのアメリカ人夫婦がクリスマス・ディナーに招いてくれました。そのお宅の子供夫婦と孫が全員集合した賑やかなパーティで、なかなか楽しかったのですが驚いたのはプレゼントの数です。天井まで届くかという巨大なツリーの袂には、大小さまざまの無数のギフト・ボックスが山積みになっていました。それを子供たちが片っ端から開けていき、出てきたプレゼントをしばし眺めたかと思うと次の箱のラップをびりびりと破き始めます。その光景は、心待ちにしていた贈り物をついに手に取った子供というより、ベルトコンベアの前で黙々と作業をこなす労働者を思わせました。彼らのもう片方の祖父母の家では輪をかけて大量のプレゼントが待っていると聞いたときには、思わず言葉を失ったものです。

アメリカ人のクリスマスプレゼントに対する価値観は、基本的に「質より量」志向であります。『賢者の贈り物』を書いたオー・ヘンリーはアメリカ人だったはずですが、 あのつましい美学はどこへやら、毎年クリスマス時期になると誰も欲しがらないガラクタが大量に流通しては片端から消費されていきます。

ただ厳密に言えば、実際に「消費」されているとすら限りません。というのは、クリスマスが過ぎるとあちこちのスーパーのカスタマー・センターに長蛇の列ができ、返品する品物を両手一杯に抱えた人々でごった返すからです。 ここアメリカは消費者天国で、レシートさえあればたとえ開封されていようが使われていようが、大抵のものは返品が可能です。返品できるのは買った当人に限りません。ご丁寧にもギフト・レシートなるものが存在し、プレゼントが気に入らなければ添えられたその紙切れと一緒に購入店(か同じチェーンの最寄店)に行くと、即座に交換ないし換金することができます。贈り物を選んでくれた相手に失礼のような気もするのですが、プレゼントにギフトレシートを付けること自体、贈った当人が初めから返品の可能性を想定していることになります。

アメリカ人にとってクリスマスプレゼントはいまや、経済的見地から見事に合理化された形式的な儀式に過ぎないのかもしれません。バーゲンでなければ誰も買わないようなプレゼントを次々と開封するクリスマスの米国人は、印刷済みの近況報告しかない年賀状の山をめくり続ける元旦の私たちとある意味でよく似ています。

ポール・オースターの短編に『オーギー・レンのクリスマス・ストーリー』という作品があります。クリスマスストーリーのネタに困った作家が行きつけのタバコ屋で愚痴ったところ、店の主人オーギーがとっておきの実話を教えてやると申し出ます。街角で日々定点観測の写真を撮り溜める風変わりな趣味を持つオーギーは、昼飯代と引き換えにこんな体験談を語って聞かせます。

ブルックリンでタバコ屋を営むオーギーは、一人きりで迎えたクリスマスの朝にふと、万引き少年が落として行った財布を返しに届けることを思いつきます。免許証の住所を頼りに訪ねたアパートで出会ったのは、その少年の祖母でした。目の見えないこの老女は、オーギーを久々に帰宅した孫と思い込み大喜びをします。成り行き上オーギーは孫のふりをする羽目になり、近所の店で食材を調達して戻ってくると祖母はひそかに取って置いたワインを持ち出し、二人きりのクリスマス・ディナーがささやかに開かれます。

オーギーはしかし、件の孫息子の仕業と思われる盗品のカメラがアパートのバスルームに積まれているのを見つけてしまいます。どういう出来心かそのカメラを一つ失敬して帰ったオーギーは後に罪悪感を感じ、数ヵ月後未使用のカメラを返しに再び老女のアパートを訪れます。だがその部屋は既に別人の住処となっており、老女の足取りは途絶えていました。持ち帰ったカメラを持て余したオーギーは、まるで罪滅ぼしのように街角を行き交う人々を撮り続ける日課を自らに課すようになったのです。

飽食の米国社会とは無縁の切なさに満ちたこの物語は、しかしこの国の現実の暗部を正確に切り取っています。オーギーがクリスマスの日に自分自身に贈る盗品のカメラは、もはや物質的な価値しか持たなくなったクリスマス・プレゼントの究極のメタファーであり、不埒な孫の帰りを待つ貧しい祖母の一途な想いと鋭い対照をえぐり出しています。その文脈の延長には、オーギーがカメラを返しに行くシーンが返品天国アメリカにあっていっそう象徴的な意味を帯びています。『オーギー・レンのクリスマス・ストーリー』は、コマーシャリズムで染まったこの国の12月25日を、社会の裏側から静かに皮肉った辛口の御伽噺と読むこともできます。

つい昨年(注:2004年)のクリスマス、以前招いてくれた一家が再度私たちを招待してくれました。巨大なツリーと莫大な量のギフト・ボックスは相変わらずでしたが、プレゼントの山に混じって一枚の絵がそっと置いてあることに気がつきました。 ワニをコミカルに描いたその絵は、落ち着いた緑を基調としたポップで可愛らしい作品です。誰への贈り物かこっそり聞いてみると、なんと小学生のサムが祖父母のために描いた自作だと聞いて驚きました。彼の画才にも脱帽しましたが、それ以上に絵を受け取る祖父母はきっと高価な名画を贈られるよりもずっと嬉しかっただろうと思います。孫とクリスマスを祝うために盲目の祖母が大事に取っておいたワインのように、サム君のワニの絵はどんな高額のギフト・レシートも及ばぬ、尊い贈り物だったに違いありません。

※初出:『コロラドの☆は歌うか』番外編2005年2月26日付 一部加筆修正

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