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家族観と政治 [政治・経済]

荒井首相秘書官が性的マイノリティをディスりまくった挙句、更迭された。普段は身内の処分に及び腰の岸田首相が、今回は珍しく決断が早かった。オフレコとは言え発言内容が相当ぶっ飛んでいたので、さすがに躊躇の余地はなかったものと推察する。首相秘書官と言えば、総理の御子息がお土産購入のパシリで勇名を馳せた出来事も記憶に新しい。秘書官室はなかなかユニークな人材の宝庫のようである。

祖国とか肌の色とか、持って生まれたものを受け入れ、誇りをもって生きる。異性が好きか同性が好きかも、同じことだ。人として当たり前の権利を政治権力が排除するべきではない、という現代社会では当然の原則を、なぜ「見るのも嫌」という駄々っ子レベルの情緒論で覆そうとしたのか。LGBTとか多様性の問題になると保守対リベラルの論争になりがちだが、個人的信条以前に根本的な人間性の問題のように思われる。

荒井氏によれば、秘書官室は一様に同性婚に反対とのことだ。その真偽はともかく、政権与党内の温度感を代表した意見であることは間違いなさそうである。首相自身、同性婚の法制化は家族観や社会が変わってしまう課題とした答弁を野党に突っ込まれた。同性婚が法的に認められたとき、本当に社会は変わるのか?もし社会が変わるとして、その何が悪いのか?日本以外のG7各国を含め、三十を超える国々で既に同性婚は合法だそうである。言うまでもなく、同性婚が法制化されたために社会が壊れてしまった国は、一つもない。

家族観は本来とてもパーソナルなものだ。人の数だけ家庭の理想像は違うし、それで社会の成り立ちには何の支障もない。私的な家族観と隣人の家族観が違っていたからと言って、自分の家族のあり方が脅かされるはずもない。同性婚を法的に認めたからと言って、異性婚を望む人々が不利益を被ることもない。日本の政治は、いったい何を心配しているのか?

figure_douchou_atsuryoku.pngマイノリティに対する差別意識は、裏を返せばマジョリティの心に巣食う恐怖である。多数派が享受する価値感は、必ずしも倫理的正当性を前提としない。それは数に支えられた特権に過ぎず、数を失った時にいとも簡単に崩れ去るかもしれない。マジョリティに属する人々は、本能的にその脆さに気づいている。多数派にとって居心地の良い社会は、一皮むけば自分たちに都合良く作られた張りぼてに過ぎないのではないか?その不安から目を逸らし続けるために、「社会や家族観が変わってしまう」と警戒しマイノリティの権利を認めたがらない。人種差別や性差別と心理の深層は同じである。

個人として伝統的家族観を貫きたいのであれば、それはそれで一向に構わない。ただ政治の中枢にいる人は、自らの影響力の大きさをわきまえ、内なる恐怖心にきちんと向き合った方がいい。

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