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フェイブルマンズ [映画・漫画]

歳を取るにつれ映画をわざわざ見に行くのが億劫になり、海外出張に行く機内のつれづれにふと思い立って見ることが多くなった。4月いっぱいベルギーの大学に滞在する機会があり、往路の機内で見たのが前回のコラムで触れた『Living』である。今回は、復路のお供に選んだ『フェイブルマンズ』の話をしたい。

468B3D83-B7B7-4300-AFCC-383A0FF45162.pngスピルバーグ監督の最新作『フェイブルマンズ』は、監督本人の生い立ちをベースにした半自伝的映画である。それだけの予備知識から、一人の映画少年がハリウッドで脚光を浴びるに至るサクセスストーリーかと思っていたら、全くそうではなかった。もちろん、映画作りに魅せられた少年が主人公であることに変わりはない。だが、物語が描き出す核心は彼の成功ではない。

少年サミー・フェイブルマンの父は、有能なエンジニアである。優しく家族思いな反面、理系オタクの魂が見え隠れし時に独走する。コンサートピアニストを道半ばで諦めたサミーの母は、芸術家らしい奔放な明るさと繊細な脆さを併せ持つ、父と対照的な女性だ。父の8mmカメラでフィクションを撮る面白さに目覚めたサミー少年は、初めは妹たちを相手に、のちに友人たちを巻き込み、フィルムに虚構のリアリティを記録する趣味に没頭する。

現実指向の父は、絵空事を映像化するサミーの才能を認めつつ、そこに趣味以上の価値を認めようとしない。だがサミーの映画作りは、思いもよらぬ形でサミーとフェイブルマン一家の運命を変えていく。家族キャンプの実録をカメラに収めたサミーは、編集作業中にフィルムに映り込んだ母の予期せぬ一面を発見する。彼だけが気付いた家庭の小さなほころびは、幸福を絵に描いたような6人家族の平穏が静かに崩壊していく前兆だった。

サミーは高校で学生イベントの撮影を担当するが、その完成披露を見たある学生がサミーに詰め寄る。スポーツ万能でスクールカーストの頂点に君臨する彼は、映像が賛美する自身のヒーロー像に予想外の反応を示した。他人には決して見せなかった彼の内なる苦しさを、サミーは知らないうちにフィルムに焼き付けていたのだ。映画は単に絵空事を綴るメディアではなく、目に見える真実と隠れた真実の多層性をまるごと語る力がある。それを自覚したせいか否かはさておき、両親に反発していた思春期のサミーはやがて、父と母それぞれが一人の人間として抱える心の葛藤を素直に受け止めるようになる。

映画の幕切れ、サミーはジョン・フォード監督とつかのま面会の機会を得る。伝説の名監督は、オフィスの壁にかかる絵画を指してサミーにこんな話をする。
これは覚えておきたまえ。地平線が下にあれば、面白い。上にあっても、面白い。地平線が真ん中だと、まったくもってつまらん。
フォード監督本人は、構図の基本をレクチャーしただけかもしれない。だがその含意はたぶんもう少し深い。初めから直線で二等分された調和は、何も生み出さない。調和が乱れているからこそ、人生に陰影と魅力が生まれる。それは若きサミーにとって感動的な啓示であり、同時に救済でもあった。

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