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ザ・ホエール [映画・漫画]

shinkai_makkoukujira.png映画『ザ・ホエール』のことを書きたい。(かつての)二枚目俳優ブレンダン・フレイザーが肥満で歩行もままならない巨漢を演じてアカデミー主演男優賞を勝ち取った映画だが、日本ではあまり話題になっていない。題名はクジラだが、本物の鯨は一切出てこない。物語で重要な縦糸を紡ぐメルヴィルの『白鯨』から来ているが、鯨はおそらく主人公チャーリー自身のメタファーでもある。

チャーリーは、かつて同性の恋人と駆け落ちし妻子を捨てた男である。しかしその恋人が自ら命を絶ったトラウマから過食が止まらず、極度の肥満で心臓疾患を患っている。死を予期したチャーリーが娘との絆を取り戻そうとするところから物語が始まり、彼の昇天を想起させる結末で幕を下ろす。登場人物はそれぞれ心に癒しがたい傷を抱え、苦く痛々しい人間模様がただ綿々と描かれる。

チャーリーは妻と娘を深く傷つけた業を背負いながら、娘を一途に想い続けている。娘はそんな父を嫌悪し強い言葉をぶつけつつ、心の底では大好きだった父の面影を求め続けている。それ自体はよくありそうなフィクションの題材であるが、宣教に訪れたキリスト教系新興宗教団体の青年が二人の関係に図らずも絡んでくる。怪しげな終末論を語りチャーリーの魂を救おうと願う青年だが、やがて黒歴史の過去から逃げ出して来た彼の過去が暴かれる。しかし物語終盤で彼自身が己の罪から解放されたと知るや、ありきたりな道徳観を振りかざしチャーリーを断罪するに至る。

チャーリーはオンラインで大学の文学講座を教えている。エッセイのイロハを語りながら、決まりきったセオリーによって学生の自己表現を漂白している偽善に自ら耐えられなくなる。チャーリーはそこに、宣教師の青年のように通り一遍の価値観で生身の人間を全否定するに等しい冷酷さを感じたのである。報われない愛情と許されない罪の意識に引き裂かれ既に限界の状態にあったチャーリーは、パソコンのスクリーン上に並ぶ学生たちの前でついに感情を爆発させる。

この映画は、最近日本で話題になった二つの出来事を少し思い起こす。一つは宗教二世が直面する虐待問題、もう一つは芸能人の不倫をネタに楽しそうに盛り上がる世間である。家族や社会が軽々しく投げつける批判や同情では決して裁けないはずの当事者の深い煩悶を、底辺でもがく彼らの葛藤に寄り添って描いた物語が『ザ・ホエール』だ。たぶん、気分が沈みがちな時には見ないほうがいい映画である。

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