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ターミナル [その他]

友人が出張先からの帰りにフライトのキャンセルが相次ぎ大変な目に遭った話を聞き、かつて自分自身もそんな体験を『コロラドの☆』に書いていたことを思い出した。今読み返すと、米国同時多発テロからまだ4年後の当時、空港のセキュリティが厳格化しピリピリしていた空気感が思い出される。保安検査が厳しいのは今も変わらないが、世界の往来が回復しつつある今、コロナ禍中はシャッター街さながら寂れていた空港が活気を取り戻している。そんな昨今の変化に思いを馳せつつ、米国から日本に出張する途上でハマった18年前の記憶を掘り起こしてみた。



car_towing_car_airplane.pngデンバー国際空港でユナイテッド航空893便に乗り込んだとき、初め私はツイていると思いました。ちょうどエコノミー席最前列で足をゆっくり伸ばせる上、全席モニターが着いている機体だったので見たい番組を自分で選べるのです。出発時刻を過ぎても飛行機は動く気配がありませんでしたが、それは毎度のことで大して気にしてもいませんでした。いそいそと機内誌の番組表に目を通し、サンフランシスコまでの2時間半はアニメ『インクレディブルズ』を見て時間をつぶすことにしました。するとしばらくして機内アナウンスが入り、ハイドロナントカに問題が発見されタンクの交換部品を調達中につき遅延が見込まれると知らされました。東京への乗り継ぎ便に間に合うか一抹の不安が過ぎりましたが、別段深刻に受け止めてはいませんでした。この時点で私はまだ、行く手に待ち受ける長い長い苦難の旅を知る由もなかったのです。

30分ほどして再び入ったアナウンスによると、タンクの代替品が手に入ったのでもっか交換中とのことでした。乗客がそわそわし始めたせいか予定を繰り上げ機内上映を始めるとのことでしたので、私は早速ヘッドホンをセットしモニターのスイッチを入れました。

ミスター・インクレディブルが家族に隠れてスーパー・ヒーロー稼業を再開したころ、部品の交換を終了したものの問題が解消しないという不吉なアナウンスが流れました。予定していた東京便への乗り継ぎに間に合わない様相が濃くなってきたので、私はヘッドホンを置いて通路を戻り、乗降口付近で打ち合わせをしていた地上係員に乗り継ぎ便の変更を打診してみました。返ってきた答えは迅速・明瞭かつ絶望的でした。サンフランシスコを発つ東京便は他社便も含め全て満席だというのです。折り悪く、この日は春休み初日でアメリカ中の空港が人々でごった返していたのです。今回の日本行きはそもそも2日間の国際会議に出るための出張で、日本到着が一日遅れれば会議の半分を棒に振ることになります。問題のハイドロナントカ(要するに用語がわからなかったのですが油圧系か水循環系か何かだと思います)が早く直ることを祈り、サンフランシスコで後発の日本便のキャンセル待ちが捕まるだろうかとつらつら考えながら、とりあえず自分のシートに戻りました。

ミスター・インクレディブルが敵に捕らわれ絶体絶命の危機を迎えたあたりから、どうもこの飛行機は永遠に飛ばないのではないかという予感がしてきました。オクサンに電話をかけて状況を伝えると、スケジュール管理に万事手落ちのない彼女はすでにユナイテッドのWWWサイトで事態を把握していました。東京行きのユナイテッド便は1時発が最後だと知らされましたが、その時すでに時計は10時半を回り、西海岸との時差を考えても今日中にアメリカを出られる可能性は怪しくなってきました。ユナイテッドはすでに飛行機の乗降口を開放していたので、私は後発のサンフランシスコ便の手配をするため荷物を担いで飛行機を降りました。おかげでミスター・インクレディブルの脱出劇を見損ねましたが、自分自身の脱出作戦を練ることが当面の優先事項です。

ユナイテッド航空のカスタマーサービスのカウンターで、疲労の色を隠せない大柄のおじさんが私を迎えました。おじさんがしばしキーボードを叩いたすえ口走った言葉に、私はぞっとしました。今日中に(日付は翌日ですが)東京にたどり着く可能性が潰えたことは言うに及ばず、この日のサンフランシスコ行きは夜8時発の便まで満席だというのです。空港に丸半日カンヅメなど、考えただけでもうんざりでした。しかし、冬眠返上で残業を続けた熊のような顔をしたおじさんにそれ以上食い下がるのも気の毒で、彼の勧めに従い早い便のキャンセル待ちを駄目もとで狙ってみることにしました。

次のサンフランシスコ便は、3時9分にデンバーを発つことになっていました。その便のゲート前に陣取り、ユナイテッドの係員がやってくるのを待ちました。出発1時間ほど前に、温和な面持ちのおばちゃんがカウンタに登場しました。しどろもどろに事情を説明する私をおばちゃんは怪訝そうな顔で見つめていましたが、コンピュータに何かを打ち込んだかと思うとあとで呼ぶので待てと言うので、そばの椅子に腰をかけました。しばらくすると搭乗案内のアナウンスが入り、ややおいて座席変更とキャンセル待ちの客を順番に呼び始めました。

しかしアメリカ人は日本人の名を発音するのが下手で(当然ですが)、流れるアナウンスを一字一句集中して聞いていないと自分が呼ばれても気がつかない恐れがあります。MAではじまる名前がぎこちなく発音されるたびにこれはもしや自分のことではないか、カウンタに行って確認したほうがいいのではないか、私はソワソワし放しでおちおち本を読むこともできません。ただその一方で、キャンセル待ちなどそもそも宝くじのようなもの、期待するだけ損だという諦観が鉛のように心の底に沈んでいました。

ですので、本当に自分の名が呼ばれた時、私は一瞬耳を疑いました。ほとんど駆け出さんばかりに搭乗口に向かうとそこに立っていたのは先ほどの優しげなおばちゃんで、私の顔を見るなりあらうまくいったのねと顔を輝かせ諸手を挙げました。私はもう少しでこのおばちゃんとハグをし肩を叩き合うところでした。

サンフランシスコの空港に着くとユナイテッド航空のカウンタで宿の手配をしてもらい、空港近くのモーテルにチェックインしました。テレビを点けると、たまたまスピルバーグ監督の『マイノリティ・リポート』が流れていました。この映画の凄みは、極度に管理社会化した近未来都市の見事な作り込みようで、個人情報は網膜のスキャン・データと共に政府機関により徹底管理され、人々はどこに行っても瞬時にアイデンティティを特定されてしまいます。現在の米国社会でこれに一番近い世界をあえて挙げるなら、それは空港です。写真付きIDがなければまずチェックインできず、どこの誰がどの便に乗っているのか完全に把握されています。乗るべき乗客が一人でも搭乗していなければ名指しでアナウンスがかかり、本人が現れるかその人物の預け入れ荷物を下ろすまで飛行機は離陸しません。また昨今では外国人は入国審査で指紋と写真のスキャンが義務付けられ、ますます『マイノリティ・リポート』の世界に似てきました。この物語の舞台は予知情報に基づく犯罪の未然予防システムを司る政府機関ですが、安全への渇望が強固な管理社会化を容認していく社会背景は、9/11以後のテロリズム対策が空港セキュリティ強化を推進してきた現実とよく似ています。情報管理の強化が人々の自発的な選択というより、背後に国家最高権力の思惑がちらついているあたりも、映画は現実を不気味に暗示していると言えます。

翌日目覚めてシャワーを浴び、備え付けのドライヤーを片手に鏡の前に立ったとき、ブラシはユナイテッドに預け放しのスーツケースの中にあることを思い出しました。髭を剃ろうとして、シェーバーも同じく手元にないことに気がつきました。おかげでボサボサ頭に無精髭のむさ苦しい有様で空港に向かう羽目になりましたが、昨日からのトラブルそのものに比べればどうということもありません。

東京便の機内では、スピルバーグの『ターミナル』を上映していました。旧ソビエト圏の某国からやってきたある男が、祖国で勃発したクーデターのためパスポートが失効し、ニューヨーク・JFK空港で入国を拒否され立ち往生します。空港で立ち往生の経験なら私自身記憶に新しいところですが、ろくに英語を話さない『ターミナル』の主人公は異国の地で陥った奇怪な境遇に実に果敢に立ち向かいます。初日の晩から待合室のベンチを破壊し即席のベッドをあつらえる大胆さなど、控えめな日本人には到底真似できぬ、逞しい生存本能であります。

ところで、飛行機の中では必ず映画を上映するのになぜ空港には映画館がないのでしょうか?足止めを食らった乗客に無料チケットを配れば、いい時間つぶしになるはずです。そしてもし私が映画館のマネージャーだったら、そのうち一館はヘッドホンで各国語バージョンが聞ける『ターミナル』を上映するでしょう。旅慣れず言葉も話せない外国人が事情もわからず途方に暮れ、その上疲れた航空会社職員に邪険に扱われて絶大なストレスに参ってしまった時、トム・ハンクス演じるこの人物の素朴な勇気がきっと心に染みるはずです。要塞のごとく金属探知機に囲まれ殺伐とした現代の空港にあって、それは無力感に打ちひしがれた旅行者のためのオアシスになるに違いありません。

出張先に一日遅れで着いたおかげで、ほとんどとんぼ返りの旅程でした。帰りの成田エクスプレスの中で、今度からは万一に備えヘアブラシとシェーバーは手荷物のほうにしまっておこうと考えていました。しかしその「万一」が予想を絶して早くやって来ることなど、その時考えもしませんでした。私の七難八苦の旅は、まだ終わっていなかったのです。

(初出:『コロラドの☆は歌うか:番外編』2005年3月29日付)


もともとこの記事は二話連続の前半部であった。結果として二日に満たなかった日本滞在後に乗った帰国便がまた遅れ、さらなる冒険を強いられた続編があったのだが、続編のファイルを紛失し何を書いたか覚えていない。ただもしこの経験で得た成果が一つあるとすれば、このとき以後空の旅で遭遇する大抵のトラブルには全く動じなくなったことである。

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