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宝塚問題とミルグラム実験 [社会]

宝塚歌劇団のパワハラ問題が論議を呼んでいる。規律や礼儀作法の厳格さは昔から知られていたが、自殺者が出たことでその妥当性が改めて問われているようである。学校でも体育会系の部活にありがちな厳しい「指導」がもやは時代に合わないと言われて久しく、基本的な問題の構造は宝塚に限った話ではない。チームワークに規律は不可欠だが、密室内の上意下達に依存した「指導」は得てして暴走する。なぜ似たようなできごとが繰り返されるのかを考えるとき、私が思い起こすのはミルグラム実験だ。

ミルグラム実験とは、米国の心理学者ミルグラムが1960年代に実施した有名な心理学実験である。俗称アイヒマンテストとも呼ばれ、ナチス政権下でユダヤ人虐殺の実務を主導したアイヒマンを念頭に、権威者の影響のもとで凡庸な人間が冷酷な殺人を犯すに至る心理状況を検証しようとした。

science_machine_denatsukei.pngミルグラム実験では、被験者は別室の「生徒」を電気ショックで罰する役割を与えられる。生徒に設問を与え、誤答するたびパネル上のスイッチから電気を流す仕掛けだ。回を重ねるごとに電圧が上がり、スピーカー越しに聞こえる悲鳴が次第に切迫していく。たいていの被験者は戸惑うが、実験の責任者は平然と被験者に続行を指示する。良心に耐えかね実験を中断した被験者もいたが、実に6割を超える被験者が、促されるまま電圧450Vに至る最終段階まで実験を完遂した。

実際には実験の「生徒」はサクラで、電流は一切流れておらず、苦痛の悲鳴は演技に過ぎなかった。とは言え、どこにでもいる善良な市民が、致死相当の電気ショックを無実の第三者に与えることを拒否しない、という実験結果は議論を巻き起こした。服従の心理などと整理されることもあるが、ミルグラム実験の被験者は強制も恫喝もされていない。6割超の被験者は、なぜ途中で止めなかったのか?「生徒」の悲鳴を聞いて、引きつった笑い声をあげる被験者もいたという。電圧のつまみを回す恐怖は、倒錯した快楽と表裏一体ではなかったか?権威(実験の責任者)を盲信し自らを思考停止に追い込むことで、心の闇が囁く残虐な誘惑を正当化しようとしたのではないだろうか。

宝塚や体育会系の部活には、アイヒマンにとってのヒトラーのような眼に見える権威は存在しない。代わりに、先輩から後輩へ脈々と受け継がれる不可侵の伝統がある。後輩がやがて先輩になった時、かつて自身の受けた「指導」を行使する権利を進んで享受する。それが微弱な電流で終わるのか、命を危険にさらす高電圧までエスカレートするのか。ミルグラム実験の結果が暗示する人間の性を思えば、いつか「指導」の針が振り切れるのは、むしろ時間の問題だったとも言える。

宝塚のような組織において、規律と作法を伝える伝統が重んじられる必然性は理解できる。しかし、たとえ伝統は真っ当だったとしても、その正統性に守られていると過信すると人間は盲信と思考停止の罠にハマる。つまるところ、各々が自身の心の闇を見据え暗い誘惑から目を背けることでしか、たぶん問題の根源は解決しない。

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