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希望は光速を超えるか [科学・技術]

0kei.png東海道新幹線は開業当時「ひかり」と「こだま」の二本立てであった。「こだま」はもともと新幹線以前に東京大阪間を走っていた在来線特急の愛称で、これを新幹線の各駅路線が継承した。一方「ひかり」は東京と新大阪間を(当初)4時間で駆け抜け、当時の常識を超える超特急であった。光波は音波より遥かに速く空間を駆け抜けるから、「こだま」を超える特急が「ひかり」を名乗るのは確かに物理的に筋が通っていた。

ところが後に、「ひかり」をさらに凌ぐ新幹線計画(当初「スーパーひかり」計画と呼ばれた)が浮上した。相対論によれば、有限の質量をもつ物質を光速以上に加速することは不可能だ。10年ほど前、OPERAという国際素粒子実験プロジェクトが光速を越えて伝わるニュートリノを発見したと報告し、業界を騒がせたことがある。しかし実験装置の不具合(ケーブルのゆるみ)に起因する誤検知だったことが後に発覚し、報告は撤回された。

超光速で進む仮想粒子は理論上は存在し、タキオンと呼ばれる。タキオンは虚数の質量を持ち、通常の素粒子とは対照的に、絶え間なく超光速で運動し光速以下に減速することはできない。何より驚くべきことに、仮にタキオンが実在すれば、一定の実験設定下で過去に情報を送ることができる。昨日の自分に通信したり明日の誰かからメッセージが届くことも、理屈の上では可能になる。ある種のタイムマシンが実現するわけだ。

仮称スーパーひかり号は「のぞみ」としてデビューした。光より速く駆け抜けるものがあるとすれば、それは希望だ、という落としどころが憎い。「のぞみ」がタキオンだとすれば、未来からの伝言を私たちに届けてくれるかもしれない。永い進化過程のどこかで時間の概念を手にして以来、不確かな未来にくよくよ悩む唯一の動物が人類だが、同時に将来の希望を糧に今を乗り越える力を持つのも私たちだけなのである。

世界は先行きが見えない不安の中で2023年を迎えつつある。もし未来から届く手紙があるなら、それは世界がこれから良い方向に変わっていくという一縷の「のぞみ」を抱かせるものであってほしい。

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免疫系に関わる素朴な疑問 [科学・技術]

花粉症がひどい人は春にコロナと勘違いされないか憂鬱になり、真夏は熱中症がコロナと見分けがつきにくいと注意喚起が飛び交い、秋口には寒暖差疲労がコロナと症状が似ていて判別が難しいと言う。初期症状がコロナと共通する季節病が次々とやってきて、診断が難しいのは厄介だが、そもそも咳とか鼻水とか疲労感はどれも体が異物を排除したり自律神経が失調をきたす過程で生じるものだ。異物が何であれそれはきっかけに過ぎず、症状を作っているのは自分の体の方なのだから、どれも似ているのはむしろ当たり前だ。

meneki_bad.pngオミクロンになってワクチンの感染予防効果が減った云々という話をさんざん聞かされた。中和抗体がウイルスをサクッと退治し、体内でのウイルス増殖を抑えてくれるのがワクチンに期待される感染予防である。予防効果が低いというのは、抗体がサクッと働かずにモタッとするから増殖を許し発症に至るのか?「サクッ」と「モタッ」が程度問題である以上、感染を予防した/しないの違いも連続的なスペクトルでつながっているはずで、明確な線引きは本来難しいのではないか。

コロナに特徴的な「無症状」患者の体では、何が起こっているのか?例えば喉が痛むのは炎症反応で、ウイルスによる炎症は自然免疫が鋭意作業中である証拠である。ウイルスが増殖し始めたのに無症状(喉が痛まない)だった場合、もしこれが自然免疫が仕事をしていないことを意味するなら、ウイルスがやりたい放題で重症化してしまう。しかし実際には、検査で陽性になった(ウイルスは体内で一定程度増殖した)のに無症状のままケロッと治る人も多い。いったいだれが免疫の仕事をしたことになるのか?抗体が速やかに働いたならそもそも陽性にならなさそうなものだし、逆に抗体が機能せず炎症を起こせば何らかの症状が出るはずである。同じウイルスなのに無症状で済んだりひどい症状が出たりする違いは、どこから来るのか?個人差なのか、曝されたウイルス量が違うのか、その両方なのか。

私が勘違いをしていることも多々ありそうだが、それも含めどなたか免疫学に詳しい方に一度じっくり教えてほしい。

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日本の科学は後退するのか?その2 [科学・技術]

kenkyu_woman_naayamu.png「科学技術指標2022」(資料)が発行され、静かに話題なっている。論文総数で日本は世界5位で微減、TOP10%論文数では世界12位と明確な下降線をたどっている。国際的な科学技術動向における日本のプレゼンスが落ちていると言われて久しいが、最新のデータで裏付けられた形になった。

日本の研究開発費や研究者数はこの20‐30年ほとんど伸びていないとはいえ、依然として世界3位ないし4位の水準にある。実数が増えないのはバブル崩壊以降経済が伸び悩んでいるので当然と言えば当然だが、曲がりなりにも世界上位クラスの資金力がありながらTOP10%論文数が10位圏外陥落ということは、データ上は日本の研究は相対的にコスパが下がり続けていることになる。なぜこんなことになったのか。

日本の問題に触れる前に、ずっと世界トップ水準を推移する米国の強さの秘訣を考えてみたい。アメリカの研究コミュニティは熾烈な競争社会だ。研究者はしょっちゅうプロポーザル(研究費の申請書)を書いているし、研究大学で教職を得るにはかなり高倍率の選考を勝ち抜かないといけない。NASAのような国立研究機関の正規ポストは限られていて、コントラクター雇用(ある種の契約社員)の人が多い。プレッシャーやストレスは少なくないはずだが、それでも絶えず世界中から優秀な人材を惹きつける。研究コミュニティ全体としては競争原理がプラスに作用して、質・量ともに世界第一線の成果を生み出し続けるのが米国のモデルである。

日本の大学では、基盤的研究経費が年々減り続け、入れ替わりに競争的資金への依存度が増していると言われる。それ自体は事実だが、これが日本の科学技術力を削ぐ元凶だとする議論は正しくない。日本よりずっと研究競争の厳しい米国が、(ランキングで見る限り)一貫して日本より質の高い論文を量産し続けていることから明らかだ。当たると限らないプロポーザルを書き続けるのは時間的にも精神的にもキツいが、少なくとも真剣に研究計画を組み立てるアカデミックな知的労働であることに変わりはない。外部資金を獲得するため研究計画の推敲に費やした時間は、決して無駄にはならない。

数年単位で刻まれる競争的資金が、長期的な視野を要する基礎研究に向かない、という意見がある。原則論はその通りである。基盤的経費が潤沢にあればそれに越したことはない。だがどこの国も台所事情は厳しく、平たく言えば無い袖は振れない。ほぼ唯一の例外が、中国ではないか。ずっとダントツであった米国を、近年急伸する中国がついに追いついた。中国の研究事情をよく知っているわけではないが、国家がトップダウンで科学技術予算や研究者ポストを配分する中央集権的システムに中国の急成長が支えられていることは間違いない。政治体制が全く違う日本で同じことができるとは思わない。中国型と米国型とのどちらのモデルが参考になるかといえば、自ずと答えは出ている。

状況を打開すべく日本政府は10兆円ファンドなる計画を進めていて、その運用益で少数精鋭の「国際卓越研究大学」に集中的に資金を投下することになっている。しかし世界における日本の研究プレゼンス向上という意味では、たぶん逆効果である。厳しい認定条件をクリアするために、我こそはという大学は必死で準備に追われる羽目になる。10兆円ファンドに限らず、政府は常に各種の評価資料やら申請書やら報告書やらで大学に大量の書類提出を要求する。研究費のプロポーザルと違い、組織防衛のための労働は研究者を疲弊させるだけで何の生産性もない。研究者にとっては、資金以上に研究について熟考する時間が貴重なのだ。しかし政府は研究や研究者を育てることよりも、大学や研究機関ごと組織単位の選択と集中をやりたがるのである。

組織管理がお好きなのは、たぶん日本の政治家や官僚が研究者をあまり信用していないせいではないか。管政権時代の学術会議問題がそれを象徴している。つまるところ、それが日本の科学技術力を蝕むいちばん根源的な問題かもしれない。

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第7波の実効再生産数 [科学・技術]

第7波の全国新規感染者数があっさりと第6波のピークを越えた。オミクロン変異株BA.5の仕業と言われている。もともと感染の早いオミクロン株のなかでも、とくに感染力が強いのだそうだ。だが話はそう簡単ではない気もする。

ERN210722.png最近あまり聞かなくなったが、以前は実効再生産数という言葉をよく耳にした。一人の感染者が平均何人に感染すかの指標ということである。東洋経済オンラインのサイトで、実効再生産数をルーチン的に算出している。直近の全国の感染者数データから求めた実効再生産数が右図だ。第7波では7月11日に最大値1.25に達した後、徐々に下がり始めている。二言目には「感染拡大の加速が止まりません」とか「感染拡大に歯止めがかかりません」と連呼するメディアが少なくないが、拡大は続いているもののもはや加速はしていない。この傾向がそのまま続けば、7月中には1を切る(すなわちピークを過ぎる)のではないかと思う。

第6波以前は、感染拡大期の実効再生産数は1.5から2くらいに達していた。それに比べると今回は1.3未満と控えめだ。理由の一つは、上記東洋経済のサイトでは計算上必要な平均世代時間の仮定がデルタ株以前は5日だったのがオミクロン時代(2022年1月1日以降)は2日に短縮されたことにある。世代時間とは、感染した人が別の人に二次感染するまでに要する時間のことである。オミクロン株は感染から感染へ回転が速くなっているので、一人が感染させる人数が少なくても急速に広まりやすい。逆に言えば、感染拡大率が顕著でも世代時間が短いぶん実効再生産数は低めに出る。ただし既にオミクロン株想定で計算していた第6波の実効再生産数が最大2くらいに達していたことを考えると、(今のところは)最大でも1.2~1.3に過ぎないBA.5が何をもって「感染力が強い」と言われているのか、考え出すとよくわからない。

家族で感染してしまった話を身近でも聞くようになったし、オレゴンの世界陸上で日本選手団が複数の感染者を出したりと、小規模なクラスターがあちこちで発生していることは間違いない。それはそれで厄介ではあるが、数多のプチ・クラスターを含めてなお実効再生産数が1.3未満に抑えられているのであれば、逆に市中感染はたいして拡がっていないのではという憶測も成り立つ。世界的には、日本に先行して感染拡大した独仏伊など欧州大陸組と、日本よりずっと落ち着いている英米加など、傾向は真っ二つに割れている。何がこの違いを生み出しているんだろう?新型コロナの疫学は未だにわからないことばかりだ。

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線状降水帯その2 [科学・技術]

job_otenki_oneesan.png気象庁がこの6月から線状降水帯の予測を始めた。気象災害の軽減は気象庁の大事なミッションであるし、従来から記録的短時間大雨情報とか大雨特別警報とか、激甚災害へ警戒を呼び掛けるためいろいろな手を打っている。数値予報技術は日進月歩で向上しているので、満を持して線状降水帯予測をルーチン化したということだと思う。ただ線状降水帯という名称を持ち出したのは、ある意味賭けに出たなと思う。

そもそも線状降水帯って何だろう、という話は以前書いた(ここ)。顕著な水蒸気収束に伴い激しい降水が継続的に形成されることが特徴である。激しい雨が同じ場所で持続することが、浸水や洪水など水害リスクを高める。ただ、「線状」という幾何学的定義を表に出したことに少し違和感がある。線状でなくても停滞する降水システムは少なくないし、見事な線状であっても移動速度が早ければ悪さはしない。一昨日埼玉県で発生した豪雨は線状降水帯ではなかったが、局地的にひと月分の倍以上の降水をもたらし浸水被害を出した。

わかりやすい名前を出して耳目を集め、警戒心を喚起したいという意図もあるのかと思う。それはそれで良いが、名前を出した途端に似て非なるものが排除される。停滞する豪雨を予め捉えることが大事なのであって、それが線状降水帯なのかどうかは本質ではない。気象庁の努力と熱意は常日頃から深い敬意を覚えるが、物理的な意味づけが曖昧で国際的には認知されていない学術用語をそこまで主役に据えるべきなのか、相変わらずモヤっとしている。

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私はロボットではありません [科学・技術]

friends_robot.pngGoogleのサイトなどでログイン情報を入力して送信しようとすると、「私はロボットではありません」というチェックボックスにクリックを求められることがある。たしかに、私はロボットではない。不正アクセスを排除するセキュリティ機能の一部なのはわかるのだが、正直なところ軽い苦手意識がある。

チェックの自己申告だけで済む場合は良いが、ときどきタイル状に写真がいくつも現れて「信号機の画像を全て選択して下さい」のような課題を課される。これが結構むずかしい。明らかに信号機とわかる画もあるが、片隅に写ってるこれもしかして信号か?みたいな微妙な設問も少なくない。しかも小さくぼんやりした画像が多くて老眼の身には敷居が高い。時々クリアに失敗するのはのは私だけだろうか。それとも私はもしかしてロボットだったのか?

人間のふりをするAIを判定しふるい落とすという点で、これは一種のチューリングテストである。深層学習によるパターン認識の能力が上がっていけば、やがてこの程度のフィルターでは不正アクセスをブロックできなくなる日が来るのではないか。いたちごっこで画像テストの難易度がますます上がっていくと、老いて視力も認知能力もおぼつかくなった生身の人間はどんどん脱落するだろう。人間は衰えてロボットと見分けがつかなくなり、進化するAIが画像テストをあっさり突破する。アラン・チューリングは、そんなトホホなシンギュラリティを果たして予見していただろうか?

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研究の旬 [科学・技術]

jigsaw_puzzle.png研究はある意味で、正解があるかわからないパズルを解くようなものだ。初めにある程度予想は立てるが、ジグゾーパズルのピースがそこそこ埋まるまでどんな絵が現れるかわからない。そもそも絵らしい絵にたどり着かないかもしれないし、ピタリと嵌るピースがどうしても見つからないこともある。それでも、少しずつ空白が埋まっていく研究の日常は、ささやかな発見の喜びがそこかしこに潜んでいる。

だが、ある程度パズルの全体像が見えてきたら、研究のフェーズが変わる。試行錯誤で形の合うピースを探す地道な労働は、そこから立ち現れる完成図のデッサンを推敲する芸術家のような作業にとって代わる。つまり、データを収集したり解析する分析(analysis)プロセスから、論文の構成を考え分析結果を明快なメッセージに昇華させる統合(synthesis)プロセスに移行する。分析と統合の両輪が揃ってはじめて、研究は科学コミュニティと共有可能な「作品」として完成する。

博士(後期)過程の学生と話をするとき、私はよく研究は「生もの」だと説く。手当たり次第にパズルのピースを少しずつ嵌めていく作業は、永遠に小さな達成感に浸り続けることができる。だがこの充足感は危険な誘惑で、「生もの」は旬を過ぎると少しずつ傷んでいく。傷まないうちにパズルの絵を完成できないと、自分で自分のやっていることに飽きてくる。マイブームが冷める前に旬のネタを論文に料理する手際は、研究者にとって最も大事な能力の一つと言っても過言ではない。貴重な食材を調理できず腐らせてしまった(または腐る寸前まで行った)例を、周囲にいくつも見てきた。

コロナ禍で出張が消滅した2年間を逆手にとり、オフィスで集中できる時間をとことん投資し専門書を一冊仕上げた。無事に出版に漕ぎつけたはいいが、本の執筆に夢中ですっかり後回しになっていた2年前の研究ネタが亡霊のように視野の片隅でチラつく。すっかり旬の過ぎた題材を料理する作業は、今一つ上がらないモチベーションとの戦いだ。幸いようやく論文脱稿の目処が立ったからよいものの、いつも若手に説いていた教訓が自分自身に跳ね返ってきたわけである。

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水際対策の科学 [科学・技術]

chakuriku_airplane.png岸田総理がコロナ水際対策のさらなる緩和を予告した。すでに留学生やビジネス目的の入国者について制限の撤廃が始まっており、丸一年間本国で足止めを食らっていた私の研究室の留学生(以前書いた)もようやく先月入国を果たすことができた。一方、観光目的の外国人は今なお日本への入国を許されていない。これが今後段階的に緩和されていくようである。

もっか日本政府が観光客とビジネス関係者を区別するしくみは、入国者の行動・健康管理に責任を持つ国内組織があるかどうかである(留学生の場合はもちろん在籍する大学等が該当する)。入国許可を申請するには、受け入れ組織はそれなりに面倒な書類決済を引き受けないといけない。だから学会参加のため海外研究者が来日したいと思っても、ホスト機関が特別な労を取って許可を取り付けてくれない限り、制度上は「観光目的」となり実現は難しい。

欧米諸国の多くは、観光客を含め往来を原則解禁している。アメリカの場合、出発前一日以内の陰性証明が必須で、さらに外国人は原則ワクチン接種済みが要件となるが、これをクリアすれば観光客も自由に入れる。ヨーロッパでは、ワクチン完了者にはウイルス検査を求めないのが標準になりつつあるようだ。日本はひと手間多くて、出発72時間以内の陰性証明に加え日本到着時の空港内でさらに検査がある。検査結果待ちの列が停滞するとかなり長時間空港で足止めされるケースもあり、経験者には評判が悪いようである。この入国時検査が近く廃止されるのではないかと勝手に予想(期待)している。

理屈の上では、日本国内の感染率(人口当たり新規感染者数)より入国者の感染率のほうが低ければ、海外から持ち込まれるウイルスが日本の感染状況を悪化させるとは考えにくい。具体的には、Σ(入国者数の国別比率)×(各国の平均感染率)×(ワクチンのブレイクスルー率 and/or 入国前検査の見逃し率)のような数値を国内の市中感染率と比較すれば良さそうだ。直近のデータでは、英国や米国の感染率は日本国内の数値とほとんど変わらない(アメリカは2月中旬くらいからずっと日本の数値を下回っていた)。フランスやドイツなどはまだ人口当たりの感染者数が日本の数倍ほどあるので、入国者にワクチンないし事前検査の義務を課す措置は当面は継続せざるを得ないだろうか。

ゼロコロナ政策がまともな解決をもたらさないことは、上海のロックダウンが証明している。ウイルスは必ず入ってくることを前提に、水際でどの程度の「水漏れ」を許容するかという計算が必要だ。感染状況は日々増減するので継続的なモニタリングは必要だが、せっかく正常化に向かう決心をしたついでに政府はそのくらいのデータ分析はやっても損はなかろう。

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科研費審査スコア分析 [科学・技術]

科研費の審査で不採択だった課題について、審査結果の一部が申請者に開示される制度がある。大型科研費を除くと、審査点の平均値や低評価を下した審査委員の人数など、限られた統計情報が伝えられるに過ぎない。だがデータを丁寧に分析すると、評価点の分布を何となく類推できることもある。その一例を考えてみよう。

kakenhiscore.gif右の表は、開示情報の一部を抜粋したものである(評価の数値は実例をもとに修正を加えたフィクションである)。審査点は審査項目ごと4点満点で、複数の書面審査委員が採点する(別に相対評価の総合評点もあるがここでは触れない)。科研費のカテゴリごとに審査委員の数は決まっているが、審査委員の自己申告で利害関係(身近な共同研究者など)のある課題は評価者から外れることになっているので、申請課題によっては規定数より少人数で審査されることもある。この例では平均点が3.40なので、個々の採点が整数値であることを鑑みると審査委員の人数は5の倍数とわかる。もし規定の審査委員数が6人(基盤Bなどの場合)とすると、この課題は一名が利害関係者で辞退し5人が審査に当たったと推定できる。

審査委員が否定的な評価(2か1)を付けた場合、そう評価した根拠を選択肢から選ぶことになっている。例えば「研究課題の学術的重要性」という審査項目では、「学術的に重要な課題か」「独自性・創造性が認められるか」「国内外の研究動向と研究の位置づけは明確か」「科学技術や社会への波及効果が期待できるか」という4つの選択肢(複数回答可)が示されている。この例では、4項目中3つで低評価が認定されている。5人中の3人がそれぞれ別の観点で低く評価したかもしれないし、特定の一名だけが3項目にダメ出しした可能性もある。この表だけではその違いは判断できないが、平均点が3.40なので実は低い評価をした審査委員は一人だけだったと特定できる。

その理由はこうだ。仮にこの審査項目で2または1を付けた審査委員が二人いたとする。すると審査点平均値は最大で(4+4+4+2+2)/5=3.2のはずで、3.40に届かない。当然、三人以上の委員が2または1を付けた可能性もない。この例であり得るスコアの分布は、4点が3人で3点と2点が一人ずつ、または4点が4人と1点が一人、のいずれかに限られる。つまり、5人中4人は満場一致かそれに近い高得点で申請課題を評価しているが、残る一人だけなぜか全否定に近い辛辣な判断を下したことになる。基盤BやCなどは二段階審査制度を採用しており、ボーダーライン付近の申請課題は第2ラウンドで同じ審査委員により再度採点されるが、一人でもとことんネガティブな人がいると復活当選する見込みはおそらく低い。

科研費の審査委員は、任期が終わったあとに名簿が公表される。もちろんどの委員がどの課題に何点をつけたかは(採点した当人以外は)誰にもわからない。ただ一人だけ審査評価が不自然に低い場合、上述のとおり申請者は開示情報からある程度それを読み解くことができる。研究者も人の子、学説の対立か特定の研究分野への偏見かはたまた個人的な怨恨か、本来は中立であるべき審査に私情を挟むことがないとは言い切れない。申請者があとから審査委員名簿を見たときに、「やはりオマエだったか」と溜飲を下げることもあるかもしれない。

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台風の名前 [科学・技術]

taifuu_top.png台風1号が発生したそうだ。気象庁は国内向けには台風を通し番号で呼ぶが、国際的には台風に名前を振る別のルールがある。小惑星のように、発見者が好きなように命名して良いわけではない。台風(北西太平洋・南シナ海で一定程度以上に発達した熱帯低気圧)については140個の命名候補があらかじめリスト化されていて、発生順に名前を振っていく。このリストは、周辺14か国が各々の言語から10ずつチョイスした単語で成立している。日本からは「こいぬ」「やぎ」「うさぎ」「かじき」「こと」「くじら」「こぐま」「コンパス」「とかげ」「やまねこ」がエントリーしている。このラインナップでピンと来た人もいるかもしれないが、いずれも星座の名前から取られている。脈絡はないが、深い意味がないからこそニュートラルで良いのだそうだ。リストの全貌は気象庁のサイトで見ることができる。

個性豊かなアジア名があるのに、国内向けにはなぜ無味乾燥な番号制なのか?台風「こぐま」とか、やんちゃそうで可愛いではないか。『超大型で猛烈な台風「こいぬ」に警戒して下さい』と言われると、ギャップ萌えで悶絶しそうである。もっとも140個のうち130は外国語なので、多くの場合は語感に馴染みが薄い。ちなみに、発生したての今年の一号は台風「マラカス」である。楽器のmaracasではなくて、タガログ語で「強い」を意味するmalakasだそうだ。国際的な論文誌などで発表する際は、日本人研究者も番号ではなく国際名を使う。

台風の名称は、以前は英語の人名が使われていた(上記のアジア名が使われ始めたのは思いのほか最近で2000年のことである)。アメリカでは今もハリケーンに人名を充てる。こちらも名称リストが定められていて、今年大西洋・カリブ海域で発生するハリケーンは「Alex」「Bonnie」「Colin」「Daniel」と続く。頭文字がアルファベット順で男女交互に並び、毎年リセットされる。これが6セット用意されているので6年で一巡することになる。東太平洋と中央太平洋で発生するハリケーンは、ルールの基本は同じだがリストは別に用意されている。中央太平洋版は西洋名ではなくハワイの伝統的な人名で構成されているそうだ。昔は女性名だけだったハリケーンが男女同数に変わったこととか、時代の変化に応じてポリティカルコレクトネスへの配慮に苦心した形跡が感じられ面白い。

ハリケーン名の頭文字は、QとかUとかあまり使われない5文字を除いた21字を用いる。しかし2020年はハリケーンの当たり年で、ストックが足りなくなった。そんな時はギリシャ文字(Alpha、Beta、・・・)を充てるのが旧来のルールだったが、EtaとかIotaとか発音が似ていて紛らわしくいろいろ不都合が生じたようである。2021年からは新ルールが導入され、22番目以降のため予備の人名リストが追加された。なおKatrinaのようにとりわけ甚大な被害をもたらしたハリケーン名は、リストから永久に除外される。この対応は台風のアジア名も同じで、固有名詞がまとう心理的影響力の強さを暗に物語っている。

ハリケーンの名前に絡む心理学的バイアスについて、2014年にちょっと面白い論文が米国科学アカデミー紀要に出た。女性名のハリケーンは男性名のハリケーンより甚大な人的被害をもたらす傾向にある、というのである。男性名だとハリケーンをより威嚇的に感じ速やかな避難行動を起こすが、女性名が付くと安心感が出て逃げ遅れがち、という解釈をこの論文は試みる。アンケート調査によれば確かに男性名のハリケーンにより強い危機感を覚える人が多く、中でも(調査の選択肢中で)一番脅威を与えた名前はオマールであった。アラブ系の名に最も恐怖を感じるのが現代アメリカ心理の深層だとすれば、それはそれで微妙な後味の話ではある。

この論文が正しいなら、台風「こいぬ」はそのほのぼの感ゆえに多くの犠牲者を出しかねないことになる。日本で台風が当たり障りのない通番で呼ばれているのは、防災の見地から合理的ということか。

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