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ソウルフル・ワールド、或いは河童と人生の話 [映画・漫画]

芥川龍之介晩年の小説に『河童』という風変わりな作品がある。カッパが独特の社会を営む架空の国が主な舞台で、奔放でブラックな社会風刺に満ちた痛快作だ。物語の中で、誕生直前の河童の胎児に向かって父親が意思確認をする下りがある。河童の子どもは生まれる前からきちんと思考と会話ができて、将来を悲観し誕生を拒否した河童はその場で出産が中断される。人間は河童とちがい、選択の余地を与えられないままこの世に生まれ落ちる。私たちは皆、自分の意志で選んだわけではない人生を必死で生きているのである。

bg_heaven_tengoku.jpgピクサーの新作『ソウルフル・ワールド(原題Soul)』が、ディズニーのオンライン配信サービスで公開されている。主人公の男はジャズピアニストを夢見つつも、中学の音楽教師に甘んじる日々を送っている。ある日地元ニューヨークのクラブでデビューを果たす千載一遇の機会をつかんだのも束の間、浮かれすぎてマンホールに墜落する。天国行きを拒否した彼がたどり着いたのは、人間界への誕生を控えた精霊(ソウル)たちがひしめく世界だった。なりゆき上ソウルの教育係になった彼が引き合わされたのは、人生に希望を見いだせず下界行きを拒絶しつづける札付きソウル「22番」だ。死にたくない男と生まれたくないソウルの駆け引きが、やがて二人を想定外の騒動に巻き込んでいく。

これがディズニー本流のアニメ映画なら、厭世的なソウルが音楽を通じ生きる歓びを知るといった、わかりやすい成長物語になっていたかもしれない。しかしそこはピクサー、手垢のついた人生哲学を片端からひっくり返していく。音楽に没頭する至高の悦びに光を当てつつ、没頭のあまり現実から遊離し抜け殻となった魂を描くことも忘れない。積年の夢を叶える成功を讃える傍ら、まっしぐらの生き様からそぎ落とされる削り屑にかけがえのない輝きを発見する。目標を追い実現することが生きる意味なのか?才能は人生を豊かにしてくれるのか?そうでないなら、生きる幸せとは何なのか?私たちが人生のどこかで直面する問を突きつけながら、それを安易に肯定も否定もしない。

ネタバレになるのでこれ以上あらすじは書かないが、終盤で主人公憧れのミュージシャンがつぶやく短い喩え話が、真髄のほぼすべてを物語っている。

一匹の魚が年かさの魚に言った。
「ぼくは海ってやつを見つけに行くよ。」
「海?いまここが海じゃないか。」
「ここ?これは水だよ。ぼくが求めるのは、海なんだ。」

芥川龍之介は河童の胎児に「僕は生まれたくありません・・・河童的存在を悪いと信じていますから」と語らせたが、妙に達観したこの河童は、老獪で皮肉屋のソウル22番とよく似ている。いくらか芥川本人の思いを代弁しているのかも知れない。芥川龍之介は『河童』を発表したその同じ年、服毒自殺で世を去った。既に文壇での名声も社会的地位も手に入れた偉大な作家だったが、まだ見ぬ大海を無為に追い続けることに疲れたのか。または海に囲まれていることを百も承知で、そこに安らぎを見出すことのできない自身に倦んでしまったのか。

将来の夢とか生きがいとか、人生の崇高な目的を美化する暗黙のプレッシャーに私たちはさらされがちだ。でも自らの意志でこの世に生を受けた人はいないから、そこに大げさな意味を与える義務もない。もちろん夢を叶えることは素晴らしいが、どんなに努力しても手の届かない願いもあれば、逆に目標を達成し燃え尽きてしまうこともある。海を求めて海を泳ぎ回る魚は、夢中になっている間は充実感に我を忘れていられるが、本当は絶えず苦しさと紙一重だ。

そんなとき立ち止まって空を見上げると、何気ない木漏れ日の美しさにふと心を奪われる瞬間がある。人生に大それた目標などいらないと悟ってしまえば、人生は生きるに値すると心で感じることができる。『ソウルフル・ワールド』はそんな映画だが、煩悩多き実生活でこれを実践するのは、案外むずかしい。

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