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秩序社会と森発言 [社会]

社会には、秩序を守るために多くの決まりごとがある。しかし、既存の秩序がいつも正しい理念を体現しているとは限らない。昔から染み付いた価値観が許容できなくなれば、変えていかなければいかない。特定のコミュニティのしきたりが歪んでいれば、正さなければならない。その場合、秩序を維持するための規律ではなく、誤った秩序を正しく解体するための指針が必要になる。

figure_nakama_hazure.pngしかし秩序のゆるやかな解体は、秩序の維持より圧倒的にむずかしい。国が定める法律はふつう、秩序の解体より維持を目的としている。そして民主国家では国民の多数意見が(独裁国家では権力者が)秩序の維持に力を及ぼす。だから多数派にとって都合の良い既存秩序は、少数派にとっていかに不合理だったとしても、歪みを正すメカニズムが存在しない。結果として社会秩序はマジョリティの意に沿う形に収斂してゆき、放っておけばそのまま安定的に維持される。民主的な多数決原理は、少数への差別を社会に固定する指向性をもともと構造的に孕んでいるのだ。

そのため、差別の存在する古い秩序を解体していくには、敢えて逆差別的な荒療治がしばしば採用される。アファーマティブ・アクションはその一例だ。あるいは、既存秩序の中で特権的立場にある人の過ちに厳しいペナルティを課し、その「罪」を本人にも社会にも認知させることもある。2015年ティモシー・ハントという英国のノーベル賞学者が、韓国で開かれた国際会議でこんな発言をした。「研究室に女の子がいると3つの問題が起こる。誰かがその子を好きになってしまうこと、その子が誰かを好きになってしまうこと、そして批判されると泣き出してしまうことだ。」ハント博士は当時ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの名誉教授だったが、この失言の直後に辞任した。事実上の解雇通告で、彼の妻が所属大学から電話を受けたとき、ハント博士本人はまだ件の会議から帰国の機上にいたというから凄まじいスピード決済だ。一切申し開きの機会すら与えられなかったわけである。

発言の是非だけにこだわると、これほど厳しい制裁は理解しづらい。問われているのは何を言ったかのみならず、歪んだ秩序(=昔ながらの偏見)に我知らず加担した未必の故意である。ハント博士に悪気や底意はなかったようだが、悪意のなさはむしろ無意識下の偏見に対する自覚の欠如でもある。そんなささやかで無自覚な偏見が積み重なって、差別が容認される「秩序」が出来上がっている。一見可憐な雑草が地中で図太い根を張りめぐらせているように、他愛もない失言の水面下には、旧態依然とした秩序が居座っている。ハント博士に対する厳格な処分は、道端に咲く一輪の花を抜くことが目的ではなく、地中で絡み合う根を駆逐する長大なプロセスの一部なのである。

森喜朗氏が「女性がいる会議は長い云々」発言で組織委員会会長を辞任した。国内では当初「あ、森さんがまたやらかした」くらいの反応で、政府もJOCも日和見でのらりくらりとしていたが、当然ながらオリンピックは世界が注目している。海外のメディアやスポンサーがこぞって森氏に一発退場を突きつけた温度感は、ご本人とその周辺は想像もできなかったのかも知れないが、ハント博士を即日処分した欧米基準に照らせば何ら不思議ではない。森さん個人の資質に加えて、男女平等意識の遅れた日本社会の実態、と付け加える欧米メディアが多いようである。花が咲くのは、そこに根があるからということだ。

日本は基本的に秩序を重んじる社会である。それは時にかけがえのない美徳だが、時には絶やすべき秩序すら解体したがらない日和見主義につながる。森氏の辞任に続く騒動のグダグダぶりから察するに、雨漏りだらけのあばら屋すら取り壊しに躊躇しているようである。組織委員会にいま必要なのは、新しいリーダーよりまずプロの解体屋ではなかろうか。

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