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ちりめんじゃこと小さなエビ [その他]

忘れっぽいので小さい頃の思い出はかなり曖昧だが、幼稚園のできごとでいくつか鮮明な記憶がある。一つは、怖くて近寄れなかった同じ組の子。それを知った母が保母さんに何気なく相談したところ、私が恐れていたのはガキ大将でも何でもない、普通の大人しい男児だったらしい。実はその保母さんご当人も、私にはとても怖かった。ある日私がサメの絵を描いていたところ、後ろから覗き込んだ保母さんが何を思ったか、パックリ開けたサメの口に歯をぐいぐいと描き込んでくる。コラボのつもりだったに違いないが、そっちは口じゃなくて尻尾なんだと言い出せない私は、異形と化していくサメを呆然と見つめる他なかった。一つだけ嬉しかった思い出は、いきさつは忘れたが事情で園児不在の休日に幼稚園を訪れたときのことだ。送迎バスの運転手さんが私一人を乗せ、近所を一周してくれたのである。普段は園児の激戦区で絶対に座れない最前列を確保し、幼稚園バスを貸し切りでドライブできるなんて、天にも昇る心地だった。

fish_shirasu.png小学校に上がってしばらくするとビビリも次第にマシになり、その反動なのか目立ちたがりの性格傾向が芽を出した。しかし私が言い出すことや夢中になることは、たいてい少し(またはかなり)ズレていた。誰も気付いてもいなかったと思うが、ちりめんじゃこの袋に混入する小さなエビになったような異物感が、胸の奥で少しずつ膨らんでいった。ときどき休み時間に友達の輪に加わらず、校庭の周囲を独りぐるぐると歩き回ることがあった。植え込みとフェンスにはさまれた狭い隙間に側溝が綿々と続いていて、溝蓋の上を忠実にたどって歩くと列車の運転手になったような気がして楽しかったのである。一度だけ、あれは独りで何をしているのかと友達に尋ねられたが、悪事を見咎められたような気まずさを感じて、何も答えられなかった。

学生時代で一番楽しかった時期は、遅ればせながら大学院の頃だ。小エビや子ガニが珍しくない、風変わりな環境だったからだと思う。大人になれば、自分にあった居場所を自分で選ぶことができる。職場がどうしても合わなければ、転職する選択肢がある。住む街も趣味の付き合いも、さまざまな制約やしがらみがあるとは言え、最後は自分の意思で決めることができる。しかし子供にとっては家庭と学校が生活のほぼ全てで、学校を選ぶ権利はおろかクラスを変える自由もない。稚魚の群れに埋もれて真っ白に染まりさえすれば、学校は快適な小宇宙かもしれない。しかしそこに紛れ込んだ小さなエビにとっては、子供同士の世界はどこか窮屈で、時に残酷ですらある。

今年も新学期が始まった。たぶん、教室の中で一人アウェーの空気を感じ、満たされない心の疼きを抱えて日々を過ごす子たちもいるだろう。彼らに伝えられることがあるとすれば、君たちが大きくなればきっと今より生き易くなる、ということだ。いくつになっても社会は相変わらず理不尽かもしれないけれど、物心ついた頃から理不尽の海で泳いできた君たちは、そこで溺れない術を知っている。それに、学校に比べて大人の社会ははるかに広くて猥雑だ。小さなエビが逃げ込める隙間もあるし、その気になればちりめんじゃこの袋の外に飛び出していくこともできる。自分自身もちょっと賢くなって、他人のことをもう少し分かるようになる。

何よりも、いつか誰かがちりめんじゃこの山から小エビを見つけ、四つ葉のクローバーを引き当てたように喜んでくれるかも知れない。ひねくれず迎合もせず正直に生きていれば、いつか世界のどこかに自分に暮らしやすい片隅が見つかる。ということを、私はずいぶん歳を重ねてから信じられるようになった。

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