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幸福の代償 その2 [社会]

コロナ禍が始まった3年半前の記事(これ)で、ル=グウィンの『オメラスから歩み去る者たち』のことを書いた。
『ゲド戦記』を書いたアメリカの作家アーシュラ・ル=グウィンの短編に『オメラスから歩み去る者たち』という不思議な作品がある。オメラスとは犯罪や戦争と無縁な平和に満たされた架空の街で、人々が思い思いに夏の到来を祝って集う華やいだ日常が綴られる。だがこの街の一角にただ一人、その幸福を分かち合うことの許されない孤独な子供がいる。子供は窓のない小部屋に幽閉されたまま劣悪な環境に放置され、気遣いの言葉一つかけてもらうことすら叶わない。オメラスで育つ少年少女は遅かれ早かれそんな街の秘密を知り、当然ながら憤りや悲しみに震える者もいる。だが彼らはやがて、子供が置かれた現実を直視することを止める。何故なら、不幸な子供の犠牲の上にこそ街の平穏な秩序が支えられていると気付いているからだ。もし子供を救い自由のもとに解き放てば、オメラスの人々が享受する幸福の日々は遠からず終わりを告げる。
ハーバード大サンデル教授は、この物語を題材にベンサムが言う「最大多数の最大幸福」の是非を問いかけた。多数の幸福と引き換えに少数の犠牲を容認するベンサムの理論は、民主化が行き届いた現代社会では到底受け入れられない。しかし、ル=グウィンはベンサム理論の教材として『オメラス』を書いたわけではない。
ただ、ル=グウィンの思考の源泉はもっと深いところにある。オメラスの人々は賢人でも聖人でもなく、欲も弱さも併せ持った私たちと同じ人間だ。彼らは至上の幸福を手にしながら、心の底ではその幸福がいつ潰えるかと怖れている。御伽話のような桃源郷を信じるほどウブではないから、幸福を維持するには相応の代償が必要だと考える。作者は、幽閉された子供がどうやって社会の幸福に奉仕しているのか、その仕組みについては一切触れない。なぜなら、子供の犠牲が続く限り社会の安寧が担保されると人々が「信じている」こと、その盲目的な信念の裏に潜む秩序崩壊への怖れこそが、物語の本質だからだ。
これを書いた時は、コロナ禍初期に社会を覆いつつあった漠然とした恐怖に『オメラス』を重ねていた。いま再びオメラスを持ち出したのは、最近巷を賑わせている全く別の事件を想起させるからだ。ジャニー喜多川氏の性加害問題である。

audience_smartphone.png事件が大きく取り上げられたきっかけは、BBC制作のドキュメンタリー番組だった。海外ジャーナリズム発の告発がなかったら、日本の大手メディアは今なお沈黙を貫いていたかもしれない。ジャニー氏の性犯罪疑惑はかつて告発本でたびたび取り上げられ、民事訴訟の事実認定ではジャニーズ事務所が敗訴した。しかしテレビ局や新聞社は未必の故意により隠蔽に加担し続けた。その理由は、商業的にジャニタレを手放せないメディアの忖度と説明される。その要素はもちろんあるだろうが、問題の根源はもう少し深い気がする。

被害を訴えた元タレントに対する誹謗中傷が後を絶たないと言う。「知りたくもなかった事実」に苛立ちを感じる人が、ジャニーズのファンにすら(むしろファンだからこそ)一定数いるのである。自分の愛する心地よい世界が、おぞましい犯罪と引き換えに成立していると知った時、それを断罪するより必要悪として受け入れることを選ぶ。『オメラス』の世界で人知れず幽閉されていた子供は、日本に実在していたのである。

ジャニーズ問題をメディアがスルーし続けた理由の一部は、それが「社会が求めていない」報道だったからではないか。ストイックに真相を追求する心あるジャーナリストも少くないはずだが、メディアの大半は市場価値の薄いコンテンツに見向きもしない。結果として社会の沈黙は続き、犠牲者は救われなかった。事件を黙殺したメディアがジャニーズ事務所と共犯だとすれば、醜い現実を受け入れるより知らないフリを好む社会も、完全に潔白とは言えないはずだ。

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