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夢のあとに [その他]

眼球の奥には、盲点という受光器官を欠いた一角がある。網膜上に映る像はかならずその一点が抜け落ちるはずだが、ふだんその欠損に気づくことはない。そもそも私たちは視野の真ん中だけでほとんどものを見分けており、視野の中心から2~3°離れるだけで視力は急速に低下するが、その不便を意識することもない。欠落だらけの視覚情報は脳内で自動的に補正され、あたかも完璧な2次元画像であるかのように再現されるからである。その意味で、私たちが眼で見ている世界はありのままの現実ではない。脳が断片的情報にさまざまな手を加えて再構成した、心のなかの世界である。

そのため私たちの脳には、極めて優れた視覚情報処理ソフトウェアがインストールされている。ただしそれは生まれつき備わっているわけではない。赤ん坊が周囲を見渡したり探索したりしながら少しずつ学習し回路をつなぎ合わせていくことで、徐々に育まれていくのだ。成人してから手術で光を得た盲目の男性の物語を読んだことがある。ハードウェアとしての視覚機能は完全に回復したが、ずっと視力に恵まれず育った彼にはソフトウェアを組み上げる機会がなかった。そのため何を見てもぼんやりとうごめく光の渦が見えるばかりで、物の形状や特徴をはっきり認識するには遠く及ばなかったという。残念ながらチャップリンの『街の灯』のようにはいかない。

世界は空間軸と時間軸の上に存在している。時間軸は目に見えないが、そのかわり人はものごとを記憶する力があり、過去に見聞きしたできごとを時系列として脳内に再現できる。そうでなければ、昨日のあなたと今日のあなたが同じ人物であることを知る術はない。人の顔や名前を覚えるのが苦手という人は多いがそれは程度の問題で、毎朝職場の同僚と出会うたびに「以前お会いしましたっけ?」から始めるような事態には陥らない(稀にそのような記憶障害の症例がある)。人を覚えるということは、顔や名前だけではなくその人の性格や癖にわたる膨大な情報を記憶するということだ。大好きな人がいれば苦手な人もおり、尊敬する親友がいれば手を焼く上司もいる。誰かの人となりを知っているということは、その人の過去の言動や立ち居振る舞いを手がかりにその人物像が心の中で生き生きと蘇るということだ。私たちは、身近な人が言いそうなこと、やりそうなことをありありと思い浮かべる想像力に長けている。

sotsugyo_hanataba.png時折思い出したかのように、他界した父や母が何食わぬ顔で夢に現れることがある。楽しげに何か語っていることもあれば、不機嫌そうに不平をこぼしていることもある。いずれにせよ、そうか死んでいなかったのか、あれはなにかの間違いだったのだ、と私は考える。それは目覚めと同時にフッと消える一時的な思い込みに過ぎないが、しばらく床の中でじっと夢を反芻するときの感情の重さは決して幻ではない。そもそも私たちが現実だと信じている世界自体が脳の中で構築された幻影にすぎないのだとしたら、逆に言えば夢の中で感じるリアリティと本物の現実とを隔てる壁は思いのほか薄い。私たちの豊かな想像力の中に生き続ける故人は、ある意味では偽りのないぬくもりを纏って「本当に」生きているのである。今週友人の訃報に接し、ずっとそんなことを考えていた。

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