SSブログ

伴奏ピアニスト [音楽]

music_piano.pngピアニストには、ソリストと伴奏者がいる。ソリストは、リサイタルにせよコンチェルトにせよステージの主役を張る。伴奏者は、歌手やヴァイオリニストなど別奏者のリサイタルで脇役に徹する。ヴァイオリン・リサイタルというと出演者はふつう伴奏者込みで2人のはずだが、本来は独りでやる演奏会をリサイタルというから、伴奏者は頭数にもカウントされていない黒子扱いだ。プロのピアニストを目指す音楽家の卵は、大抵ソリストを夢見ているのではないか。黒子だってショーの進行に不可欠な役回りとわかっていても、やはり舞台に乗るからにはスポットライトをセンターで浴びたい、と思う人がコンサートピアニストに憧れるわけだから。

伴奏者であれば、ソリストほどの才能や技術は必要ないと思われるだろうか。もちろん、そんなことはない。確かに、伴奏ピアニストがコンチェルト並のきらびやかな技巧を披露する機会はあまりない。しかし保育園で先生が弾くオルガン伴奏のように和音を押してリズムを刻んでいるだけでもない(もし超越技巧のオルガン演奏を披露している保育士さんがおられたらゴメンなさい)。ヴァイオリニストにとって重要なレパートリーを占める数々のヴァイオリン・ソナタだって、正確には「ピアノとヴァイオリンためのソナタ」であり、両者の地位は本来対等だ。いやむしろピアノの比重のほうが大きいと言っても過言ではない。ブラームスとかフランクとか、ピアノパートの弾きごたえが生半可でなく伴奏だけで結構曲になってしまうヴァイオリン・ソナタの傑作も多いのである。優れた伴奏者を確保できるかどうかは、リサイタルの成否を左右しかねない重要案件ではないかと想像する。

かつてジェラルド・ムーアという名伴奏ピアニストがいた。フィッシャー=ディースカウを始め往年の名歌手が好んでパートナーに指名したことで知られる、プロが認めたプロだ。しかし巷で名前が広く認知されている伴奏ピアニストはほとんどいない。コンサート(最近あまり行っていないが)の入り口でもらうチラシの片隅に小さく名前が載った伴奏者に見覚えがあると、ああ相変わらず頼りにされているのか、と他人事なのにちょっと嬉しくなったものだ。時代劇には知る人ぞ知る殺陣の名人がいて、ここぞという時に切られる名演技にシビれる隠れファンがいると聞く。どの世界でも、陰で舞台に華を添える伝説のベテランがいるのだ。

伴奏ピアニストは、主役の奏でる音楽に注意深く耳を傾ける。が、単に聞いているだけではない。聞いてから合わせるのでは、脳内や筋肉の神経を情報が伝達する反応時間のぶんだけ必ず遅れる。たとえそれがコンマ1秒のズレだったとしても、音楽にとっては致命的だ。だから、伴奏者は相方の音楽が流れる行方をあらかじめ予測できなければならない。落ち着いてしみじみ弾く人、ノリノリに飛ばして先を行く人、テンポを大胆に揺らして歌う人、淡々と控えめに奏でる人。器用な伴奏者は、さまざまな音楽的個性に憑依できる引き出しをたくさん持っている。そして曲が始まるやいなやパートナーのクセを察知し、瞬時に適切な引き出しを選ぶ。自己を無にして相手に染まるということではない。伴奏者だって一人前の音楽家である以上、己の美学がある。だから、違う音楽的個性がぶつかり合う緊張感を疎まず楽しめる人が伴奏者に向いている。自分だけの引き出しを誰よりも美しく磨くのがソリストだとすれば、あちらこちらの引き出しから思わぬ宝物を見つけて愛でるのが伴奏者だ。

実社会にも、ソリストと伴奏者がいる。人が集まれば輪の中心で場を沸かせる者がいれば、じっと耳を傾ける人もいる。仕事や学校のちょっとした晴れ舞台のために頑張っている人もいれば、それを傍らで見守る誰かがいる。ソリストであることは日々を輝かせてくれるが、知らないうちに気が張って疲れてしまい、ふと立ち止まって不安になることもある。そんなとき、良き伴奏者に出会えた人は幸せ者だ。熟練の伴奏者は、スポットライトの下で揺らめく数多の喜怒哀楽を受け止め寄り添ってきた、人生の達人なのだから。
nice!(0) 
共通テーマ:日記・雑感

受賞しない理由 [文学]

一年に一度きりの時事ネタなので、先週に続いて再びノーベル賞の話である。

bunbougu_hanepen.png受賞者が一躍脚光を浴びるのは当然だが、逆に受賞しなかったがゆえに話題に上る人がいる。村上春樹氏だ。この季節になると恒例行事のように「村上春樹はなぜノーベル文学賞を取れないのか」といった言説がひとしきり飛び交う。物理学賞や化学賞や医学生理学賞でこのような現象は起こらない。ノーベル賞級の業績を残した研究者は少なくないので、有力候補でもたまたまその年に選ばれる確率は低いから、選に漏れること自体に理由はない。でもなぜか文学賞だけは、村上氏を賞から外したことに選考委員会(スウェーデン・アカデミー)の意図があるという前提で諸説入り乱れ盛り上がる。文学好きの習性か、それとも村上春樹だからそうなるのか。

たしかにこの人はいろいろな意味で別格の作家である。世界各国で訳書が出版され国際的に認知度が高い。知り合いのアメリカ人気象学者に村上春樹ファンを自認する女性がおり、英訳された村上作品はすべて読破したそうである。平易で研ぎ澄まされた美しい文体はこの人特有の匂いが香りたち、これにカブれて村上春樹気取りの文章を綴る素人が後を絶たない。平凡な日常のすぐ裏側に不穏な異世界がぬっと現れる物語の面白さは抜群で、読み始めたら止まらない吸引力がある。私自身はとくにファンではないし未読の村上作品も多いが、ハルキストと呼ばれる筋金入りのファン集団がいる理由は何となく分かる気がする。カフカ賞とかエルサレム賞とか海外で高く評価されているから、次こそはノーベル賞か、と期待が盛り上がるのは無理もない。

文学賞は社会的・政治的なメッセージ性が好んで評価されがちなどと言われることもあるが、それが全てでもない。つい最近文学賞を獲ったカズオ・イシグロはそういう気配は薄いし、作家のタイプとしては村上春樹に近い立ち位置と思われる。イシグロ氏自身が村上春樹への敬愛を語っているし、落ち着いた文章が淡々と続く語り口や仄かに漂う軽やかなユーモアなど、この二人の作風には共通点もある。でも物語の仕掛けの作り込み方では全く個性が違う。村上作品の主人公が取り澄ましていながらどこか寂しがり屋で人恋しげなのに対して、イシグロ小説の登場人物はたいてい独りよがりで時に鼻持ちならない。会話はしばしばチグハグで、しかしその噛み合わないリアリティの中に裏腹な本心が透けて見えるよう巧妙に計算されている。語り部が言わなかったことや口を濁した行間に大事な鍵が潜んでいて、その点と点を結んでいくと語られた物語とまるで違う真実が浮かび上がってくるのがイシグロ作品の醍醐味だ。ノーベル賞の受賞理由である「(力強く心を揺さぶる小説を通じて)この世界とつながっているという見せかけの感覚に潜む深淵を日の元にさらした」という表現は味わい深い。村上作品のようにファンタジーの舞台装置を借りずとも、ささやかな見栄やごまかしの中に人間関係の機能不全が少しづつ露呈するさまが丁寧に描かれ、よく知っている(と思っていた)現実像の脆さに直面する。それでも『日の名残り』や『夜想曲集』を始めイシグロ小説の読後感が不思議と温かいのは、作者が人間を見つめる眼差しの優しさ故ということか。

とまるで永年のイシグロ・ファンであるかのような書きっぷりだが、何を隠そう2017年ノーベル賞の報せを聞くまで(名前は知っていたが)イシグロ作品は一つも読んだことがなかった。そんなに凄い作家なら読んでみるか、とノーベル賞効果で手を出したわけで、単なるミーハーである。ふと思ったのだが、じつはそれこそノーベル賞文学賞の目的ではないか。歴代の受賞者を俯瞰すると、よほどの文学通でないと名前が出て来ないような作家がゴロゴロいる。商業的にヒットはしないが世界にもっと読まれるべき作家を紹介するのが、ノーベル文学賞の隠された使命なのではないか。だとすれば、村上春樹の名前が上がらないのも頷ける。世界中で読まれているのに受賞しないのではなく、世界中で読まれているから今更プロモーションの必要がないのである。

もっともボブ・ディランの知名度をわざわざ上げる必要があるとは思えないから、一概にそうとも言えない。受賞しないのは単なる確率論に過ぎないと冒頭で言ったにもかかわらず、結局私も思いつきで怪しげな論陣を張ってしまった。やはり文学賞にはそういう誘惑があるのか。
nice!(0) 
共通テーマ:日記・雑感

棚ぼたノーベル賞 [科学・技術]

nobel_medal.png今年もノーベル賞発表シーズンがやって来た。例年どおり巷では受賞者の推測が飛び交っていたが、名前を挙げられたほうは嬉しいのと煩わしいのが半々ではないか。有力視される科学者らの周辺に毎年マスコミが駆けつけ、別の受賞者が発表されるやいなや「残念、今年もだめでした」と解散するのが恒例行事と化しているようだが、そそくさと撤収するマスコミの背中を見送るご本人の胸中は如何ばかりか。今年の化学賞に輝いた吉野彰博士も、昨年まではお決まりのように「寸止め」記者会見に引っ張り出されておられたようである。

ノーベル賞の歴史は悲喜こもごもだ。偉大な業績がありながら涙をのんだ科学者もいれば、運命の悪戯で大発見を成し遂げた人もいる。後者の有名な例が、1978年物理学賞を受賞したアーノ・ペンジアスとロバート・ウィルソン両博士だ。ときは60年代、衛星通信技術の発展と引き換えに御用納めとなったベル研究所の電波通信施設が、基礎科学利用に開放されることとなった。この巨大電波アンテナを使った天文学研究を夢見ていた二人にとってまさに願ってもない機会だったが、いざ運用を始めると観測データに正体不明の微弱電波が紛れ込んでいる。アンテナをどこに向けても一様に検出されるので特定の天体起源とは考えにくく、観測装置自身が発する雑音かまたは身近な電波源による干渉の可能性が濃厚と思われた。施設はニューヨーク市に近かったので人工電波が入りこむ余地は確かにあったが、アンテナを市街に直接向けても雑音値はいっこうに変わらない。思いつく干渉源の可能性はすべて検討し、その度に候補から外された。挙句の果てにアンテナ内に巣を作った鳩のつがいを捕らえて追い出し、糞をきれいに掃除する念の入れようだったが、謎の信号は消える気配がない。張りつめた静寂が幽かな耳鳴りを呼び起こすように、宇宙の虚空に耳を澄ますと至るところから声なき声が語りかけてくるのだ。

実は彼らが当初雑音と信じて疑わなかった微弱電波の正体こそ、世紀の大発見だったのである。かつて宇宙の開闢(ビッグバン)が放ち今や消えゆく微かな残光が、宇宙の彼方から一様に届く電波として観測される。定常宇宙と膨張宇宙をめぐる激論に決着が着いていなかった当時、ペンジアスとウィルソンによる宇宙背景放射の発見は宇宙膨張の引き金となったビッグバンを裏付ける決定打となった。もともと定常宇宙論の教育を受けたウィルソン博士自身は、彼らの思わぬ発見が膨張宇宙の動かぬ証拠だと聞かされ半信半疑だったという。二人をノーベル物理学賞に導いた功績は、本人たちがその存在すら想像もしていなかった宝物を掘り当てた僥倖だったのである。

2002年物理学賞を受賞した小柴昌俊博士も、人並み外れた強運の持ち主と囁かれている。博士が提案し建設したカミオカンデが、ニュートリノ天文学の道を拓いた。その端緒を開いたのが、1987年超新星ニュートリノの観測成功である。着想以来長年カミオカンデに注力してきた小柴博士は、大マゼラン雲でこの超新星が出現したとき定年退官までわずか1ヶ月余りだったという。これほど近く(マゼラン雲は私たちの銀河系の子分である)で超新星が出現したのは、近現代の数世紀の中でこれ一つきりだ。まるで狙いすましたようなタイミングではないか。他にも、本来は記録用磁気テープを交換するはずだったが週末明けで作業者がおらず稼働中だったとか、「あいつがいると実験が失敗する」と理不尽なジンクスで名高い学生がたまたま不在だったとか、強運伝説を支えるエピソードは数知れない。

棚からぼた餅、ということわざがある。でもぼた餅が落下するには事情があるはずで、落ちてきそうな棚を選んで待っているのならそれは戦略であって単なる運ではない。小柴博士は10年以上先の物理学を見据えてカミオカンデを構想し、その実現のために測器メーカーを口説きながら人脈を駆使して予算を獲得し、プロジェクトが走り出すと若手研究者を采配して次々と成果を上げた。ペンジアスとウィルソン両博士にしたって、電波雑音の正体を突き止めるまで決して諦めない不断の探究心があったからこそノーベル賞級の発見につながったのである。ペンジアス博士が後に苦い想い出として語ったところでは、アンテナから追い出された鳩は再三古巣に舞い戻って来たため最後は銃で始末されたらしい。鳩にとっては気の毒な話だが、真相を極めたい二人の意志はとにかく固かった。棚のぼた餅を管轄するのが神様か仏様かご先祖様かわからないが、いざ投下するときはちゃんと相手を選んでいるのである。
nice!(0) 
共通テーマ:日記・雑感

消費税(私的)改正案 [政治・経済]

10月に入り、消費税が10%になった。9月は増税前の駆け込み需要で家電からトイレットペーパーまであれこれ飛ぶように売れ、半年分のペットフードを買い込んだら物置に入らなくて途方に暮れた、といった残念な事件が続出した模様である。冷静に考えれば8%も10%も大して違わないように思うが、たかが2%されど2%、少しでもお得と聞けばなりふり構わないのが人間の性ということか。

ある日を境に消費税ががくんと上がるから、駆け込みを誘発するのである。いきなり増税する代わりに、まずは曜日ごと変動制にしてみてはどうか。月曜日は10%、火曜日は8%、水曜日はお得デーで5%、とか日替わり定食の要領である。店舗にとっては国が勝手にセールをやってくれているような嬉しい制度だ。ただしこれだと、たまたま水曜が定休の店は客が他店に流れて不公平を被るかもしれない。いっそ、支払いのたび自動的に抽選が発動して消費税率が決まる「宝くじ」制にしてはどうだろう。原則10%だが時々8%や5%が当たり、たまにジャックポットでマイナス税率(つまりキャッシュバック)が飛び出すとか、スロットマシン感覚である。コンビニでおにぎりを買おうとしたらレジの表示モードが突然切り替わってファンファーレが鳴り響き、小銭がじゃらじゃら払い戻されたりしたら楽しいではないか。大手チェーンなら大抵のレジはコンピュータ制御のシステムになっているはずだから、一定の確率で当たりを仕込むくらい簡単にプログラミングできそうである。デジタル化が進んでいない小規模小売店向けには、対応に課題が残るかもしれない。

money_slot_machine.pngギャンブルのノリで税金を徴収するなど不謹慎と怒られるだろうか。とはいえ宝くじ自体その収益を自治体の事業に活かすことを意図した集金システムだから、一種の税金のようなものである。宝くじでコンスタントに元を取れる人はあまりいないと思うが、そもそも地方自治体の収益が目的だから胴元必勝の制度設計であり、カジノと同じで統計上客に勝ち目がないのは当然だ。しかし人生は統計学のコマではない(と誰しもと思いたい)から、幸運などこかの誰かが高額当選をつかみ取った噂を聞くたび、いつか自分もその誰かになることを夢見て宝くじ売り場に並ぶのだ(私はモノグサなのでやらないが)。

当たりくじ付き消費税制の欠点は、払い出す賞金の分だけ税収が目減りすることである。ちなみに(公式サイトによると)宝くじは売上の約4割が収益金として自治体に還元されるという。回収率4割ではさすがに税制としては無理があるだろう。でも消費税なら宝くじと違って印刷費や販売コストは発生しないし、当選金をささやかなキャッシュバック程度に抑えれば高額賞金の原資も要らないので、4割どころか現行制度に比べて遜色ない税収を見込むのも夢ではない。何より、キャッシュバック目当てに購買意欲が刺激され、現行制度より税収増になる可能性だって十分ある。景気刺激策としても有効だから、経済活性化に一役買うだろう。うわさを聞きつけた外国人が面白がって来日するようになれば、観光産業も潤う。何だかワクワクしてきた。

現行の消費税制度だって軽減税率とかポイント還元とかずいぶんややこしい設計を盛り込んだわけで、どうせならもう一歩大胆な改革があっても良かった。お堅い政府だってカジノ法案とかぶち上げて通したくらいだから、日々の生活をささやかな射幸心で満たすくらいの遊び心があってもバチは当たらない。
nice!(0) 
共通テーマ:日記・雑感