SSブログ

スターウォーズ42周年 [映画・漫画]

vader_and_luke.gifスターウォーズ9作が完結した。第1作(エピソード4)が公開されたのは1977年だから、五十路が近い私にはかろうじて同時代を歩んできた感があるが、若い世代にとっては西部劇の続編がいまだに続いているのと変わらない古典のイメージかもしれない。ただし先住民に対する白人の優越意識が見え隠れする(とくに初期の)西部劇とは対照的に、スターウォーズは基本的に政治的弱者の視点から語られる物語だ。銀河帝国軍の高官はみなナチスドイツを思わせる制服に身を包んだアングロサクソン系俳優が演じるが、帝国の圧政に立ち向かう反乱軍は多様な被り物キャラがひしめき合い、ハリウッド映画における人種的多様性のはしりではないか。

よく言われることだがスターウォーズは東洋趣味にあふれている。派手な銃撃戦のあげく最後はなぜか素手で殴りあうハリウッド活劇のお約束と一線を画し、スターウォーズの見せ場はライトセーバーで繰り広げられる華麗なチャンバラである。ダースベーダーのマスク形状は戦国武将の兜を思わせるし、ルークの最初の衣装はどう見ても柔道着だし、霧深い森にひとり住む小柄なヨーダはまるで仙人の佇まいである。ジョージ・ルーカスが敬愛する黒澤明の作品をヒントにスターウォーズを構想したというから、日本人の目にどこか懐かしく映ったとしても偶然ではない。

スターウォーズの世界観の真髄は、「フォース」が持つ善悪の二面性にある。力がもたらす悪への誘惑という着想自体は珍しくないが、たとえ無私無欲の正義漢であっても敵への怒りに我を忘れた瞬間ダークサイドへ転落するというフォースの禁欲志向が面白い。旧三部作の山場(エピソード6)でダースベーダーに挑んだルークは、怒りに身を任せねば格上のベーダーと互角の勝負は難しいが、かと言って自制を失いベーダーにとどめを刺すと自分が悪の化身に成り代わってしまうジレンマに直面する。義憤に燃えるヒーローに無条件の制裁権を認めがちなハリウッドにあって、敵を力で倒せば己に負ける、という哲学は異彩を放っている。結局、ベーダーが最後に寝返ったおかげでこのジレンマは自ずと解消した。しかし新三部作(エピソード1-3)で銀河皇帝にヘッドハンティングされたアナキンは、ルークと違ってダークサイドの父も生き別れの妹も何だかんだ言いつつ最後には助けに来るハン・ソロのような友人もいない孤立無援の状態で、皇帝の企みに乗ってベーダーと化すしか選択肢がなかった。アナキンの心が弱かったというより、ルークほどツイてなかったというだけである。

新三部作完結から10年を経て公開が始まった続三部作(エピソード7-9)は、ルーカスフィルムがディズニーに買収されて以降の作品であり、ジョージ・ルーカス本人は制作から遠ざかっている。彼自身が構想していた続三部作は、本人のボヤキによれば実際の映画と似ても似つかぬ相当マニアックで難解な物語だったらしい。ディズニー色の続三部作は誰でも楽しめるエンタテイメントにきっちり仕上がっているが、同時に旧三部作の哲学への敬意も忘れない丁寧な仕事で、往年のファンにも概ね支持されたようである。そのせいかストーリーの焼き直し感がなくもないが、闘うヒロインのレイに絡むカイロ・レンが内向的で繊細なアンチヒーローだったり、人物造形の趣向に時勢を匂わせる違いもある。

若き日のレイア姫もかなり勝気なヒロインではあったが、続三部作のレイほど切羽詰まった悲壮感はなかった。いつも歯を食いしばっている求道的ヒロインという面では、レイはどこかナウシカを思わせる。双肩に世界の命運を背負う苦しさも、善悪の境界が揺らいでいく不安に怯える孤独の深さも、(とくにコミック版の)ナウシカとよく似ている。クロサワ映画にインスパイアされて始まったスターウォーズは、40年超の時を経たいま宮崎駿作品の背中を追っているということか。

共通テーマ:日記・雑感