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舞台に上がる、舞台であがる:研究者編 [科学・技術]

butai_stage_big.png学会講演は研究者の大事な仕事のうちだが、人前でしゃべることに多かれ少なかれストレスを感じる人も少なくない。とりわけ、人生初の学会発表に挑む大舞台は誰でもひどく緊張する。私自身、初めて国際会議で口頭発表の機会をもらったときの嬉しさと怖さは今でも覚えている。一字一句英文のシナリオを書いてほぼ丸暗記し、15分間ひたすら暗唱して乗りきった(当時はパワーポイント普及前で、壇上のモニターでカンペを読めるようなテクノロジーはまだなかった)。しかしホッとしたのも束の間、質疑応答という最大の難所が待っている。予め原稿を用意できる講演そのものとちがい、誰が何を言い出すかわからない質疑の時間は準備のしようがない。早口の英語ネイティブ(または訛りの強い非ネイティブ)に訊かれた質問が理解できず、「もう一度お願いします」を繰り返した挙げ句結局よくわからなかった苦い思い出の1つや2つは、日本人研究者なら思い当たるフシがあるだろう。

あがり症は職場のプレゼンからプロのコンサートに至るまで多くの人が悩む課題で、少しググればあがり対策指南のサイトや動画がごろごろ出てくる。「私はこんなやり方であがり症を克服してきました」とYoutubeでプレゼンするその姿が明らかにアガっていたりすると、ご本人が経験してきたであろう人しれぬ苦悩の深さが偲ばれる。聴衆は全部ジャガイモと思え、みたいなアドバイスがあるが、人間を野菜に変換できるほど豊かな想像力を発揮できる心の余裕があるなら、誰も苦労はしないのである。程度に個人差こそあれ、晴れ舞台で激しい動悸や手足の震えが止まらないのは生理的に当然の身体反応で、緊張を意思の力でねじ伏せようとしてもうまくいかない(むしろ逆効果である)。動物行動学的には、目前の危険から脱出するべくアクセル全開でアイドリングしている状態に近いそうだ。ということは、あがり症がひどい人ほど危機回避本能に優れているということで、人間として上等と自負していいのではないか。

あがりの心理的深層には、失敗体験のトラウマがあると言われる。たしかに、英語の質疑で撃沈した古傷が国際会議で話すストレス源になっている研究者は少なくないだろう。これを克服するには、小さな成功体験を積み重ねて失敗の記憶を上書きしていくしかない。1つの講演でヘマをしたら、その後2つうまく切り抜け勝ち越せばよい。経験値を積めばだんだん質問の真意も薄々見えるようになるし、そうすると英語がよく分からなくても想像で補って答えられる。たとえ的外れな回答を返しても質問者が逆に補足説明してくれるし、そんなやり取りはほとんどの聴衆の目には普通に質疑応答が盛り上がっているように見えるから心配いらない。駆け出しの頃は、偉い先生から何か聞かれるとそれだけで自分の研究が足元から崩れていくような恐怖を感じたものだが、著名な研究者でも(むしろ著名な人ほど)実は人の話をよく聞いてなくて初歩的な勘違いをしているだけの場合も多い。そういう勘所も、場数を踏めば踏むほどだんだんわかってくる。

歳をとって図々しくなったのか、数百人を相手に国際会議でしゃべる機会も苦痛ではなくなり、むしろ場を楽しめることも多い(もちろん緊張しないわけではない)。さすがに原稿をまるごと頭に叩き込んだりはしなくなったが、出だしでつまづくとダメージを引きずりやすいので、冒頭30秒ほどの科白は今でも入念にイメージトレーニングする。とは言えそんな境地に達するまでには、学会初挑戦にビビっていた学生の頃からから優に10年以上を要した。あがり対策に特効薬はないが、若き日の自分に助言する機会があったなら、緊張で頭が真っ白になっても何とかなるくらい周到に準備をした上で、いざヘマをやらかしてもいちいち凹むな、と言ってやるだろうか。それで気が楽になるか定かではないが、少なくとも歳と共に少しずつ楽になっていくという希望は伝えられる。

もちろん、どれだけ場数を重ねてもあがり症に悩み続ける人も多いだろう。スピーチやプレゼンに比べて、演奏家やアスリートは自身を身体能力の限界ギリギリまで追い込まざるを得ず、微かなあがり症状でもパフォーマンスに深刻な影響が出かねない。来週は(気が変わらなければ)音楽家とくにピアノ弾きが抱えるアガりの問題を考えたい。

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