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ベリー、ベリー、ケアフル [海外文化]

sport_baseball_bat.pngタイガース・エンジェルス戦で打席に立った大谷翔平選手を評し、テレビ解説を努めたジャック・モリス氏が「Be very, very careful」と呟いて炎上した。モリス氏はかつてタイガースで活躍した往年の名ピッチャーであり、「ここはとてもとても慎重に投げないと」と打者大谷の実力を高く評価するコメントである。非難を浴びた理由は発言そのものではなく、その口ぶりにある。アジア系の訛りを真似たことがアジア人蔑視と見做され、モリス氏の地元局出演は無期限停止処分となった。

ビリー・アイリッシュさんが似たような動画流出で謝罪に追い込まれた案件が、記憶に新しい。コロナ関連でアジア系差別が増加している背景もあるのか、英語の訛りを揶揄することはマイノリティを見下すタブーという認識が定着しているようだ。言葉をからかわれ辛い思春期を過ごしたアジア系米国人は、確かに不愉快な思いをしたも知れない。やらなくても良いことをやってしまった失態であることに変わりはないが、「ベリー、ベリー、ケアフル」一言で番組降板を宣告されるとは、なかなか手厳しい。

ところでこの話を聞いたときに浮かんだ素朴な疑問は、一般アメリカ人が「日本人の」訛りを本当に再現できるのか、ということだ。今もやっているか知らないが、大谷選手がエンジェルスで活躍し始めた頃、メジャーリーグの解説者がよく「オータニ・サーン!」と叫んでいた。日本の野球中継で、選手を「さん」付けで呼ぶことはまずない。「おれ、ちょっと日本の習慣とか知ってるぜ」的な無邪気さがスベっているのである。たぶん、アジア人はみな出会い頭に合掌一礼していると思っているタイプではないか。彼らに日系と中国系と韓国系の英語訛りを判別できるとは思えない。

そこでモリス氏の問題発言を実際に聞くと、どうもインド系英語を模倣している気配がある。米国のインド系移民は数が多いので彼らの英語を耳にする機会が多い上、アクセントが特徴的なので真似されやすい。イントネーションが平板な日本語訛りとは、明らかに違う。無粋な物真似をやる以前の問題として、アジア系を一緒くたに括ってスルーでいいのか?モリス氏の失態を批判的に伝える意識高い系メディアも、アジア言語間の違いを検知できていない点では五十歩百歩である。彼らにとっては、オータニサンの祖国が東アジアなのか南アジアなのか、たぶんどうでも良いのではないか。アジアの言語学的多様性に関する無知の方が、「ベリー、ベリー、ケアフル」より根深い文化的偏見のような気がする。

ちなみに本件について訊かれた大谷選手ご本人は、「(問題の場面は)動画で聞いたが(モリス氏の)処分について自分が言うところではないし、個人的には気にしていない、影響力のある方なので難しいところがあるのかなと思う」と答えた。相変わらずソツのない紳士である。

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ワクチンとマグネットのはなし [海外文化]

medical_vaccine_covid19.pngコロナワクチンの接種跡に磁石が引っ付くという無邪気なデマ動画が、アメリカを中心に拡散しているようである。自ら二の腕に小さなマグネットを貼って驚いてみせる人が続出したが、噂を聞いた当初はおバカなユーチューバーがネタでやっているのかと思っていた。しかし実際に動画を確認してみると、要はワクチン陰謀論者がキャンペーンの一環で広めているのである。

ウイルスと同じで、陰謀論にもいろいろな変異種が存在する。中でも感染力の強い流言は、コロナワクチンにはマイクロチップが仕込まれていて、接種した人はみな知らないうちに行動を監視される、という壮大なお伽話だ。ビル・ゲイツ氏が以前から感染症対策に関心が高く、ワクチン開発にも積極的に投資しているせいで、ゲイツ氏が黒幕だとする「説」がまことしやかに囁かれ早一年が経った。マイクロチップって強磁性体なのか、注射針を通過できるほど極小のチップが存在するのか、とかいろいろ疑問は尽きないが、陰謀論に合理的思考は初めから通用しない。

すでに成人人口の半数以上が少なくとも1回の接種を終えたアメリカであるが、ここ最近接種数が伸び悩んでいるという話を聞く。行政は接種促進に躍起だ。ニューヨークでは駅で接種すると一週間分のメトロカードをもらえたり、球場で接種するとタダでヤンキース・メッツ戦チケットをもらえたり、と気前が良い。オハイオ州に至っては、接種を済ませた人は毎週100万ドルが当たる宝くじに参加できるという破格の大盤振る舞いを始めるそうだ。日本では考えられないような税金の使い道であるが、裏を返せば米国の焦りの現れでもある。ゴリゴリの保守層を中心に、成人人口のおよそ5分の1から4分の1くらいはワクチンを断固拒否する難攻不落の岩盤だそうだ。それに加えて、なんとなく接種が不安で尻込みしている層が一定数いるようである。

ところで、マグネット動画をせっせと作っている人たちが反ワクチン派だとすれば、彼ら自身が本当に接種を済ませた可能性は限りなく低いはずだ。だから、「接種した」腕にマグネットがくっつくと実演している時点で、そもそも矛盾しているのである。もし進んでワクチンを打つような人なら、両面テープで(かどうかは知らないが)磁石を貼り付ける見え透いた芝居を打つ動機がない。つまり、動画のシチュエーションが成立する余地が本来ないのである。あれこれ主張するわりにツメが甘いのも、陰謀論者に見られる共通の特徴の一つだ。もともとガセネタを信じやすい純朴な人たちなので、無理もない。

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世界を受け入れる [海外文化]

hito_jinrui_shinka.pngギャラップ社の調査によれば、神が人間を創造したと答えるアメリカ人は成人人口の40%に達し、33%は(創造説に同意しなくとも)人類進化に神の導きがあったと信じているそうである。生物進化を神様と切り離して考えている人は、米国民の22%に過ぎない。決して前近代の話ではなく、2019年の世論調査だ。2000年以前と比べれば、2割強でもだいぶ改善してはいる。

アメリカのキリスト教右派は、ローマ・カトリックなどと比べかなり原理主義的である(現在ヴァチカンは進化論を否定していない)。米国プロテスタントのルーツは英国から弾圧を逃れてきた清教徒(ピューリタン)で、禁欲指向の強いカルヴァン派に属する。政治保守と宗教保守は必ずしも同義ではないが、中絶や同性婚への拒否反応など共和党的価値観の根幹には、彼ら独特の宗教観抜きに語れない要素は少なくない。旧約聖書を厳格に信じるなら、ビッグバンも進化論も受け入れる余地はなくなる。一方、生物進化は認めるがその過程に超越的な知性が介在したとするインテリジェント・デザインなる思想的キャンペーンが存在し、いわば創造説と進化論の折衷案である。上記調査の33%分がこの手の信者であり、かつてジョージ・W・ブッシュ大統領もインテリジェント・デザインの支持を公言していた。聖書と『種の起源』の狭間で迷える魂のゆりかごとして機能しているようである。

前世紀のアメリカでは進化論を学校教育から排除しようとする運動がたびたび起こり、何度か裁判にもなった。現在では、原理主義的な教義を教育現場に押し込もうとする主張は、さすがに露骨な形では聞かれなくなった(と思う)。とはいえ、水面下でインテリジェント・デザインに代表されるソフトな半宗教的思想に姿を変え、進化論と対等な対立仮説を偽装し公的教育に忍び込ませようとする企ては健在である。個人の信条に留まる限り何を信仰しようと本人の自由だが、それを公的教育に持ち込むとなると話は違う。本来科学でないものに科学を装わせて子供に教え込むことは、世界を正視する胆力を鍛え真っ当な自己批判精神を育む機会を奪うことになるからだ。

バイデン次期大統領を選出する審議に抗議するトランプ支持者の一群が、連邦議会議事堂に乱入する事件が起きた。彼らはトランプ大統領が吹聴し続けた戯言を真に受け、不正に選挙が歪められたと「心から」信じている気配がある。己の意に沿わない世界を否定し、耳当たりの良いファンタジーに引きこもるだけなら、まだいい。しかし今回は、現実を妄想で上塗りする欲求が暴力的な実力行使にまで発展してしまった。民主主義の権化のような国の中枢でなぜこんなことが、という衝撃が世界に広がっているようだ。だが問題は、民主主義に対する挑戦ではなく、民主主義が否定された(票が盗まれた)という幻想をかくも多くの人が易々と信じていることにある。進化論を受け入れられないのと同じく、世界をありのまま直視するにはあまりにナイーブな人々だ。

私自身はいかなる神も信じていないが、信仰とは本来、人の心を温かく照らす灯火であるはずのものと思っている。だから宗教色をわざと薄めた宗教は、宗教そのものより却って危険だ。真面目な信仰の要素を失った宗教は、社会の中で増殖することだけが自己目的化するからである。インテリジェント・デザインがそうであり、トランプ信奉者の集団も宗教の形を取らない宗教と言える。トランプ大統領は支持基盤を強化拡大すべく、数多のフェイク・ニュースを御託宣のように放って教祖を演じてきたが、いまや信者が制御不能なレベルまでヒートアップしてしまったようだ。このタイミングでようやく「敗北宣言」を行ったのは、自ら煽った暴動が手に負えなくなって捨て身の沈静化を試みたのか、または群衆に責任を転嫁することで振り上げた拳を下ろす千載一遇の機会と見たのか。教祖はじきに政治の表舞台から去るかも知れないが、開けてしまったパンドラの箱はそう簡単にはもとに戻らない。

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第三の候補者 [海外文化]

america_daitouryousen_woman.png刻一刻と変わる米大統領選の動向をネットでチェックしているとき、接戦州で得票率48.9%対49.5%のような数値をよく見かけた。差が小さいのはさておき、なぜか数値を足しても微妙に100%に届かない。よく見ると、残る1から2%前後の票を獲得している第三の候補者の名前がある。リバタリアン党という独立系政党から出馬していたジョー・ジョーゲンセン(Jo Jorgensen)なる女性だ。

彼女の得票率はもちろん共和党・民主党の各候補に肩を並べる水準には程遠いが、泡沫候補の中ではちょっとした存在感を見せている。しかも、バイデンとトランプ両氏の得票率差がコンマ数%という州では、1%台の数値は決して小さくない。党名から察するに小さい政府指向の政策がウリのようで、一見共和党と親和性が高そうなのでトランプ票を食っているのではないかと気になった。つまり、仮にジョーゲンセン氏が立候補していなければ、バイデン候補が競り勝った接戦州でトランプ大統領が逆転し、最終的な結果すら変わっていた可能性もあるのではないか?

と思って調べると、案の定そんな記事が英国ガーディアン紙に出ていた。結論としては、大概の専門家はジョーゲンセン候補が大統領選の動向に影響を与えたとは見ていない。二大政党の現状を見限った有権者がリバタリアン党支持層を構成しており、彼らはバイデンにもトランプにもシンパシーを感じない。ジョーゲンセン氏に票を投じた人たちの多くは、仮に彼女が出馬していなければ投票にすら行かなかったと考えられているようである。

リバタリアン党は、個人の自由に対する公権力の介入に徹底して反対する。だから政府の銃規制にはもちろん反対だが、中絶や同性婚も同じように選択の権利として擁護するので、共和党的な宗教倫理観とは相容れない。国民皆保険制度を認めない姿勢は共和党的だが、移民政策に寛容な点(移住は個人の権利と考える)は民主党的である。そんなリバタリアニズム(自由至上主義)の主張は論理が潔く一貫しているが、結果的に左右両端が尖りすぎてしまい保守からもリベラルからも受け入れられない。立場の左右を問わず、圧倒的大多数の人々にとっては、教条的な論理を問い続けるのは疲れる。理屈で割り切れなくとも、各々慣れ親しんだ価値観を大事に慈しんで生きるほうが、ずっと心地よいのである。

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なぜ木村太郎氏は間違えたのか [海外文化]

landmark_whitehouse.png米大統領選はバイデン勝利がかなり濃厚になったが、トランプ陣営は鼻息荒く集計差し止めを提訴するなど場外乱闘ステージに突入した感がある。こうなったら一番厄介だろうな、と皆がうすうす恐れていたシナリオに、見事にハマってきた。両陣営のコアな支持者があちこちでデモや小競り合いを起こすだけならまだしも、現職大統領が対立を煽っているような現状は先進国としてマトモではない。

ところで、ここのところ個人的にずっと興味を持って見守ってきたのは、ジャーナリスト木村太郎氏の発言動向である。4年前の大統領選でヒラリー・クリントン候補優勢が伝えられる中、木村氏はトランプ勝利の見立てを見事に的中させ、勇名を馳せた。今回の選挙も「バイデンが勝つ要素が見当たらない」とテレビ番組で公言し99%トランプ勝利を予測しておられたが、結果はバイデン候補に軍配が上がりそうである。なぜ今回は読みを外したのか?

どこの国にも多かれ少なかれ保守派と急進派の対立があるが、米国の共和党支持者のメンタリティは私たちには少し理解しにくい。キリスト教原理主義に代表される宗教色の強さや、国民皆保険制度や銃規制を毛嫌いする米国独特の自由至上主義指向など、日本とは文化的な土壌がかなり違う。トランプ大統領自身は決して伝統的な共和党的価値観を象徴してはいないが、保守派の政治指向を戦略的に利用しつつ、ラストベルトで苦境に喘ぐ労働者の不満をすくい取って前回の大統領選を制した。そんな米国社会の奥底に疼く痛みが大統領選の流れを決めると見抜いたのが、4年前の木村太郎氏だった。通り一遍の教科書的な分析と一線を画す視点が新鮮だった。

前回トランプ大統領の誕生が世界を驚かせたのは、政治経験のない粗野なビジネスマンを米国民が神聖なる大統領に選ぶはずがない、と多くの人が感じていたせいだと思う。しかし現実は、高潔だろうが粗野だろうが自分の暮らしを良くしてくれる人がいいと考える層が意外に厚かった。就任後は経済対策のみならず、メキシコ国境の壁建設や在イスラエル大使館のエルサレム移転など、国際関係上の良識に照らせば正気の沙汰とは思えない公約を次々と実行していく。politically correctであることは疲れると内心思っていた一定数の人々が、自分たちの想いを承認し代弁する大統領の出現に歓喜し心酔した。

この4年の間に木村太郎氏の分析力が鈍ったとは思わない。日本のニュースや解説者の多くが伝えきれない親トランプ派の本音を木村氏の指摘から学んだし、フロリダやテキサスなど大票田の南部州は実際にトランプ大統領が取った。だがラストベルトに位置するミシガンとウィスコンシンの2州でバイデン氏が辛勝すると潮目が変わり、木村氏も急に意気が下がってしまった。気丈に情報番組でコメントを続けておられるが、持ち前の切れ味がすっかり鈍りグダグダになってしまった感が否めない。

木村太郎氏を批判するためにこの話題を取り上げたわけではない。僅差の接戦州が選挙人過半数獲得の鍵を握る展開になった以上、予測の非常に難しい選挙戦だったことは間違いない。しかし、バイデンは勝つ理由がないとまで言い切ってしまったのは、判断を誤ったと言わざるを得ない。思うに木村氏はトランプ大統領に肩入れしすぎたせいで、本来冷静に分析するべきアメリカ世論全体の温度感を読み損ねてしまったのではないか。何が正しいかを見極めるより、自分が正しいと固執したい。4年前の成功体験が効きすぎたのか、木村氏ほど頭脳明晰な老練家すらそんな誘惑に勝てなかったようである。

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まだら模様の国 [海外文化]

米国コロラド州に住んでいたとき現地で知り合った、アメリカ人のご夫婦がいる。離れて暮らすお二人の子どもたちと私たちの年齢が近かったせいか、感謝祭やクリスマスなど家族イベントにたびたび呼んで頂き、何かと可愛がってもらった。空軍大佐を退役した貫禄満点の紳士と、亭主関白な夫をふわりと支える優しい奥様で、まるで古き良きアメリカを絵に描いたようなご夫妻である。

彼らと大の仲良しの夫婦が、隣町に住んでいた。こちらのお二人は、かつて大使館に勤務していた実直なご主人と、原色ファッションを華麗に着こなす豪快な奥様だ。お二人の一人娘が結婚することになり、大佐が友人のため式で演奏をするボランティアを探していたのがそもそも出会いの縁であった。その後も折に触れて家族の団らんにご一緒させてもらったが、二組の初老夫婦のやりとりがとにかく面白い。大佐は筋金入りの共和党支持、対して大使館氏は民主党支持、そもそも軍事と外交という国と国との関係において対照的な立場でキャリアを全うした二人だ。政治的信条が一致するわけがないのだが、そんな違いを互いにいじって笑い、和気あいあいと盛り上がるのである。

landmark_washington_monument.png昔からアメリカという国は保守とリベラルに二分され、残る浮動票がどちらに着くかで国勢が決まる選挙を繰り返してきた。政治的・宗教的・倫理的価値観のズレが絶えず論争の種になりながら、それでもちゃんと国が成立してきたのは、個人のレベルでは「あっち側」の人とも楽しく付き合える米国人が少なくないからだ。青と赤で塗り分けられた米国地図が一色に染まる日は永遠に来ないとわかりきっているからこそ、まだら模様をありのまま受け止めようとするおおらかさが、アメリカという国の輝きの源泉なのである。しかしトランプ大統領はそんな社会の糊しろを好まず、折り悪くコロナ禍の打撃で人々は気持ちの余裕を失いがちだ。大統領選の結果が何であれ、米国らしい豊かな包容力を彼ら自身の手で破壊して欲しくない、と切に願っている。

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Noと言い切りすぎる日本人 [海外文化]

バブルの頃だったか『Noと言える日本』のような本が流行った。裏を返せば、日本人は普段Noを言えない(言いたがらない)、少なくとも海外からそう見られている、という共通認識があるようだ。

food_zei4_gaisyoku.png思い当たる原因の1つは単純な誤訳だ。「ええ」や「はい」や「そうですね」を軒並みYesで置き換えると、思わぬ誤解のもとだ。これらの言葉は肯定の意味だけでなく単なる相槌にも使われるから、英語のYesと同義ではない。
「夕飯どこに行こうか。がっつり焼肉とか?」
「そうですね・・・。」
「廻る寿司もいいかな?」
「はい。」
「新しくできたイタリアンの店も試してみたいね。」
「ええ。」
これを全部Yesで代用すると、「人の話を聞いてるのか!」ということになりかねない。日本人の癖に慣れている人なら聞き流してくれるが、そうでないと何を聞いてもYesを返す壊れたロボットのように思われるかも知れない。

和を重んじる日本人は、せっかくの提案を断ると相手が気を悪くするのではと気を回し、曖昧な相槌で会話をつなぐ。一方アメリカなどでは、気に入らない提案は普通に断ればいい。
「夕飯どこに行こうか。がっつり焼肉とか?」
「いやいや、今日は胃の調子悪いから脂っこいのはNG。」
「じゃ、廻る寿司がいいかな?」
「あ、魚は嫌い。」
「新しくできたイタリアンの店も試してみようか。」
「イタリアンできたの?ピザ食いに行こうか!」
個人的な好みで提案を断っても、断られた方が気を悪くすることは普通ない。胃の不調で焼き肉にダメ出ししたのに何でピザはOK?とか勘繰られ微妙な空気になることもない。アメリカで生活すると、日本に比べ人付き合いの温もりがドライで、初めは少し面食らうことがある。しかし、空気を読まなくていい気楽さに慣れてくると、逆に居心地がいい。

しかし面白いことに、仕事の場では日本人の方がアメリカ人を相手にドライに攻める場面をしばしば見かける。アメリカ人同士の議論の仕方を観察していると、皆もちろん意見ははっきり主張するのだが、闇雲に言いたいことを押し通そうとしているわけではない(人によるが)。日本語は曖昧な言語で英語は論理的だ、みたいな言説が昔からあるが、曖昧か論理的かは話者の問題であって言語の建て付けとは関係ない。英語にも断定を避ける表現は山ほどあるし、「If I understand correctly,」とか「Correct me if I’m wrong.」とか自分が勘違いしている可能性の予防線を張る常套句もよく使われる。米国大統領選のディベートのように、相手をやり込めた者勝ちの論戦ばかりではない。攻撃的な自己主張に眉をひそめる人は、国を問わず大勢いるのである。

研究者業界には、ある程度英語が話せてそこそこ外国人と話慣れている日本人は多い。が、敢えてトーンを抑えるニュアンスを自在に使いこなすには、相応に洗練された英語力が要求される。このことに自分で気付いていないと、議論の流れを睨みながら主張の硬軟を使い分ける判断が効かず、意図せず白黒がはっきり出すぎてしまう。そのため、ようやく噛み合い始めた議論のさなか、突然日本人出席者が「空気を読まず」破壊的な論説をぶち込んでくる、という珍事が起こる。Noと言える日本どころか、言わなくて良かったはずのNoを言い切ってしまうのだ。

意見の違う相手の立場を尊重し合うことで信頼が築かれていくのは、万国共通だ。その意味で日本人の謙虚さは世界に通用する美徳だから、言葉の壁さえ乗り越え言いたいことを適切な温度で主張できれば、世界の人はちゃんと耳を傾けてくれる。私はようやくその境地の輪郭が見えてきたが、到達にはまだ遠い。

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大人ハロウィン [海外文化]

halloween_background_purple.png日本中でハロウィンがすっかり定着した感があるが、私が子供の頃はまだほとんど知られていなかった。映画『E.T.』でハロウィンの場面が出てくるが、街中が奇怪な雰囲気でいったい何事かと不思議に思った人も多いだろう(私もその一人だ)。アメリカのハロウィンは仮装した子供が近所を恐喝して回るが(「お菓子をくれなきゃいたずらするぞ」は「みかじめ料をよこさなければ潰してやるぞ」というのと基本的に同じロジックだ)、日本のハロウィンはコスプレした大人が渋谷を徘徊する。もちろん今では日本でも菓子を回収に周る子どもたちが増えたが、ハロウィンの夜にニュースになるのはもっぱらスクランブル交差点を囲む警官が何人といった話題だ。

ハロウィンの起源は、現在のアイルランドやその周辺に暮らしていた古代ケルト人の祭りSamhainに行き着くようである。読み方の難しい綴りだが、ゲール語起源でサウィンのように発音するらしい。10月末から11月初旬は秋分から冬至に至る中間点で、夏が過ぎて農作物の収穫が終わり、暗く寒い冬の気配が色濃くなり始める頃だ。いにしえの人々にとって、大自然の厳しさが日増しに身に染みつつある季節でもあった。その漠然とした不安を反映してか、この時期は死界と現実世界の境界が揺らぎ死者の霊がやって来る信じられていた。古代ケルトの人々は焚き火を囲んで集い、霊が仕掛ける悪戯を回避するために収穫物や動物の生贄を捧げてとりなそうとした。ここにTrick or Treatの遠い原型を見る説もある。

Samhain祭は長い歴史の中で変容を受けながら綿々と受け継がれ、アイルランド移民がアメリカに伝えて現在米国で行われる形のハロウィンになった(ハロウィンはSamhainの前夜祭部分にあたる)。アイルランドではカブをくり抜いて作っていたランタンは、アメリカでは現地調達が容易なパンプキンに変わった。パンプキンは日本のカボチャと近縁だが別物で、外皮がオレンジ色で大きさもでかい。秋になると米国中で子ども用お化けコスチューム各種からキットカットお徳用パックに至るハロウィングッズがあちこちの店頭に並ぶ。コスチュームに関してはさすがアメリカというべきか、これを喜んで着る子がいるのかと不思議になるB級の代物が雑然と売り場に積み上げられる。その点で日本は漫画やアニメ文化の延長かコスプレに対して独特の審美眼があり、概して仮装の完成度が高い。そのあたりの温度差が、米国にない「大人ハロウィン」が日本で普及した背景にあるのかもしれない。

そのようなハロウィンの楽しみ方は本来あるべき形からかけ離れているという批判もあるが、そもそもアメリカのハロウィン自体がケルト文化の一部をキッズ向けイベントに純化した独自の文化である。剥き出しの大自然に対する畏怖から育まれたSamhain祭は、そのままの形で現代社会に受け入れられる余地は少ない。しかし、東日本を中心に甚大な風水害をもたらした気象災害が記憶に新しい今、先端技術の粋を尽くしたはずの社会インフラは自然の脅威を前に決して盤石ではない。原理的に防げる被害もあれば、事実上避けようのない天災もやって来る。その意味では古代から変わらぬ無力感と向き合わざるを得ない時代を、私たちは生きている。10月末日の渋谷の狂騒がそんな意識下の不安から逃れられるハレの日だとすれば、むしろ日本のハロウィンこそその文化的ルーツに近いと言うこともできる。

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お値ごろホテルに見るお国柄 [海外文化]

hotel_key.png日本の主要都市にあまねく展開するビジネスホテルは、部屋の大きさは必要最小限でお洒落感も低いが、清潔で設備に無駄なく機能的によく考えられているので泊まるだけなら快適だ。もっとも、効率化はしばしば快適性の犠牲の上に成り立つ。ある有名大手チェーンの浴室はシンクとバスタブで給水を共有しており、蛇口をシンク側かバスタブ側かどちらか一方にグイッと回して使う造りになっている。風呂を貯めながら歯磨きを済ませたいと思うと不便だ。大した問題ではないが、微かな「イラッと感」が以後なんとなく同系列のホテルを敬遠する理由になることもある。別のディスカウント系チェーンでは、部屋に電話が引かれていない代わりに宿泊客への伝言がエレベータの壁一面にポストイットされていたことがあった。スマホ全盛の昨今部屋の電話を使うことは(フロントへの用事以外)ないし、とりたてて実際的な支障があるわけでもない。でもコスト削減の企業努力がかくもわかりやすく眼前に展開されると、ある種の感動と同時に一抹の物悲しさを禁じ得ない。

欧米ではビジネス仕様に特化したホテル形態は見当たらないが、安価を売りにするブランドなら米国に無数にある。典型的なものはDays InnとかComfort Inn(後者のほうが多分ちょっと格上)などの大手モーテルで、車で長距離移動する客を想定した安宿で都会より郊外や田舎に多い。アメリカに住んでいた頃、休みを取って国立公園巡りをする道中などよく利用していた。基本的にフランチャイズ経営と思われ、同じブランドでも当たり外れが極端なのがアメリカ的で面白い。事前に予約するならTripAdvisorのような口コミサイトをチェックしておくことは必須と言えよう。もっとも口コミサイトにわざわざ投稿する人はよほど良い思いをしたか相当酷い目にあったかどちらかの場合が多いので、意見が真っ二つに割れることも珍しくない。慣れてくるとコメントの行間から大方実態が想像できるようになる。アメリカの安モーテルで多い苦情は、不潔だ、あれこれ壊れてる、部屋のエアコンが航空機エンジン並にうるさい、フロントスタッフに全くやる気がない、といったあたりが定番だ。米国に住み慣れてしまえばこの程度の難点は想定内だが、日本のサービス標準を当然と思って行くと腰を抜かすかもしれない。

欧米の都市部については、中価格帯のニッチを占めているのは有名チェーンより地元の独立系が多い気がする。二ツ星・三ツ星でも室内のデザイン性にこだわりを主張するホテルは多く、機能重視で殺風景な日本のビジネスホテルとは好対照である。パリやロンドンのような大都市は地価も高いのでお値ごろの部屋は東京のビジネスホテル並に手狭だが、小さな空間を少しでも粋に演出する努力を惜しまない。ヨーロッパは古い住居等をホテルに転用している場合も珍しくないせいか、二つとして同じ規格の部屋がないホテルもある。歴史的建造物を現代的なホテルのニーズに併せて改装するには悩みも多いようだ。大型のスーツケースを持ち込むと2人目が乗れなくなる超小型エレベータとか、内扉がなくて目の前で壁が迫り上がっていく恐怖のエレベータとか、そもそもエレベータがあれば良い方で荷物を引きずって急な狭い階段をよじ登らないと部屋に到達できないホテルとか、堅牢な石造りの建築をリフォームする苦労が偲ばれる。アメリカでもニューヨークとかサンフランシスコなど古い建築が多く残る街は、ヨーロッパ的な独自規格のホテルに出会うことが多い。

欧米とひとまとめに書いたが、ヨーロッパとアメリカのホテルで決定的に違うのは朝食のクオリティである。アメリカのモーテルでContinental Breakfastといえば、出来合いのベーグルとマフィンにパサパサの食パン、コリコリのスクランブルエッグや味気ないソーセージを紙皿に取り分けるスタイルが普通だ。もともとコンチネンタル朝食という言葉は、英国が大陸蔑視のニュアンスを込めEnglish Breakfastと差別化するための呼称だと推測するが、フランスやドイツのホテルが出す「本家」コンチネンタルは仕入れたてのパン各種にハムやチーズがどっさりならび、アメリカでは決してお目にかかれない贅沢な品揃えである。日本のホテルも朝食に相当に力の入ったビュッフェを用意することは多いから、食文化に限れば「こだわりの日欧」と「ジャンクな米国」という構図になる。これはホテルの朝食に限らず、学校給食から空港ラウンジまで一様に見られる文化格差と言えよう。

各国のホテル事情は、お国柄の縮図でもある。投宿先でどんな過ごし方をしたいか、旅の楽しみ方一つでホテルのあり方も変わる。ホテルで寝転んで本を読むだけのひと時を至高の休暇と考えるか、過密スケジュールを消化するツアーに疲れて寝るだけがホテルの役割か。一ヶ月近く平気で職場を休んでヴァカンスを満喫するヨーロッパ人と比ぶべくもなく、お盆の一週間に夏休みの全てをかける日本人にとってホテルで無為の時を過ごすという贅沢は夢のまた夢だろうか。ホテルは雨風をしのげれば良いと割り切れば、安くて機能的であるに越したことはない。ビジネスホテルという日本固有の宿泊文化は、ビジネスか観光かという区別以前に、勤勉な日本人らしい旅行の価値観が集約されているのかもしれない。
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ハイジ、スイスへ行く [海外文化]

Heidi.jpg7月8日付中日新聞朝刊一面で、"Heidi in Japan"という展覧会がスイスで開催されると知った。日本が誇る名作アニメ「アルプスの少女ハイジ」は本場スイスの人々には馴染みが薄く、このような試みは現地で初めてなのだそうだ。スイス以外の欧州では日本の「ハイジ」が広く放映され一定の知名度があることを考えれば、他ならぬハイジの故郷でスルーされ続けてきたことは不思議といえば不思議だ。

新聞記事は「ハイジ」がスイスで放映されてこなかった理由として、「作中で強調される牧歌的な風景や、文明的なドイツとの対比が敬遠されたのか」と推測する。スイス人にとってはあまりにフジヤマ・ゲイシャ的だったということか、または裕福なクララの家族が暮らすフランクフルトとの露骨な経済格差が気に食わなかったのか(経済的に恵まれたフランクフルトの生活が、ハイジにとっては牢獄に近い息苦しさを伴うものとして描かれていたとしても)。いずれにせよ外国人の視点を通した自国文化の射像にいくらか違和感があったのかもしれない。

スイスが観光立国として知られるようになったのは19世紀半ば頃からだというから、比較的最近のことだ。風光明媚な山々で成り立つ国土は農業には全く向かず、歴史的には決して裕福な国ではなかった。かつては傭兵輸出が主要産業の一つだった時代もあり、文字取り身を削って生き延びてきた国である。さすがに傭兵制度は廃止されたが(バチカン市国を警備する「スイス衛兵」にだけその名残を留めている)、現代のスイスは徴兵制で強固な軍事力を誇り有事には焦土作戦も厭わない、徹底した現実主義の永世中立国である。気難しいおじいさんと天真爛漫な少女がパンとチーズを食べながらのどかに暮らすイメージとは、確かに少し違う。

知り合いに一人、スイス人の研究者がいる。面白いことに彼は母国が嫌いで、ドイツや米国での研究経験を経ていまはフランスで働いており、いつスイスに帰るつもりかと聞くとそのつもりは全くないという。海外暮らしが長いと祖国愛が強まる人は少なくないが、彼にはその気配もない。頭の回転の早い秀才で、ドイツ語圏出身でありながら英語もフランス語も流暢な彼の語学力を率直に羨ましく思うのだが、それがスイスの義務教育下で厳しい訓練に耐えた成果だとすれば、それ自体も母国への複雑な感情の遠因になっているのかもしれない。フランクフルトでアルプスの大自然を夢見続けたハイジのようにはいかないようである。

英国人作家の冷めた視点でアントワープ近郊の寒村を描いた「フランダースの犬」と違い(この原作もアニメもベルギーではほとんど知られていない)、ハイジの原作者シュピリは他ならぬスイス人であり、物語自体にスイスの人々が抵抗を感じる理由はない。立場をひっくり返せば、宮沢賢治の童話が外国で映像化され逆輸入されるようなものか。なんだか面白そうではないか。
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