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ズートピア:差別と偏見について [映画・漫画]

figure_fuhyou_higai_uwasa.pngコロナ禍の不満や不安が、世界でアジア系への偏見や差別を生んでいるという。通りすがりの人から何となく避けられるといった話はあちこちで聞くし、罵声を浴びせられたり中には傷害事件に巻き込まれる深刻な事例もある。確かにウイルスの出処は中国だったが、その後ほどなくしてイタリア北部で感染が急拡大し、あっという間にヨーロッパそして全世界に広がった。武漢の収束以降、感染者数の推移を見る限り東アジア諸国は(もちろん日本を含め)一貫してコロナ対応の優等生だ。トランプ元大統領はChinese Virusと連呼していたが、実際のところ過去一年せっせと感染を広げてきた震源地はどこなのか?だが、今日書きたいのはそういうことではない。

『ズートピア』というディズニーのアニメ映画がある。一行で要約すれば、天真爛漫なウサギと皮肉屋のキツネが反目しながらも友情の絆を深めていく物語、ということになる。しかし『ズートピア』の本質は差別と偏見を描いた寓話で、その点においてかなりリアルで重い話だ。差別とは特定のグループに向けられた社会の圧力のことで、偏見とは個々人が心の底に抱える心理的バイアスを言う。偏見が差別の構造を生み、差別はいったん広まると偏見を正当化する。偏見と差別はそうやって相互に強化していくので、社会から完全に駆除することは難しい。

ズートピアなる世界は、草食動物と肉食動物が仲良く共存する理想郷である。しかし、草食動物は無意識下で肉食動物への本能的な恐れを抱えている。そしてある事件をきっかけに、両者を隔てる心の壁が顕在化する。『ズートピア』の作者は、弱肉強食の食物連鎖ピラミッドをひっくり返し、マジョリティである草食動物を社会的強者に据える。電車の座席で偶然隣に座ったトラから距離を取るように、そっと娘を引き寄せるウサギの母親。かすかに悲しげな表情を隠せないトラの男性。束の間のシーンだが、目に見えない偏見が目に見える差別として社会に固定されていく瞬間を、鋭く切り取っている。映画が公開された2016年の2月はパリ同時多発テロの直後だったので、イスラムの人々へ向ける眼差しが厳しくなった現実と『ズートピア』の世界が、時にギョッとするほどよく似ていた。

米国コロラド州に住んでいたある日、勤め先の大学が開いた交流イベントでトルコ人留学生のスピーチを聞いた。当時は2001年の9・11テロからまだ間もない頃で、彼は在学中にテロの速報を目の当たりにした。イスラム教徒の学生が集う学内施設に駆けつけると、そこは重苦しい空気に沈んでいる。屋外に気配を感じて外を見ると、見慣れない学生の一群が取り囲んでいるではないか。スピーチで彼は「なんてこった、俺の人生は終わりだ」と思ったと冗談めかして語ったが、実際その瞬間は本気でそう感じていたのかも知れない。しかし外で待っていた学生たちは、「あなた達は私たちの変わらぬ友人です、それを伝えに来ました」と手に抱えた花束を差し出してきたという。

偏見が消しがたい心の闇だとしても、闇を自覚することでそこに光を取り戻すこともできる。アジア系への差別はコロナ前からあったし、コロナ後もなくなりはしないだろうが、手を差し伸べる人は社会のどこかに必ずいる。傷ついたり救われたりを繰り返しながら、社会全体はたぶん、少しずつでもより住みやすい世界に変わろうとしているのだと思いたい。

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ソウルフル・ワールド、或いは河童と人生の話 [映画・漫画]

芥川龍之介晩年の小説に『河童』という風変わりな作品がある。カッパが独特の社会を営む架空の国が主な舞台で、奔放でブラックな社会風刺に満ちた痛快作だ。物語の中で、誕生直前の河童の胎児に向かって父親が意思確認をする下りがある。河童の子どもは生まれる前からきちんと思考と会話ができて、将来を悲観し誕生を拒否した河童はその場で出産が中断される。人間は河童とちがい、選択の余地を与えられないままこの世に生まれ落ちる。私たちは皆、自分の意志で選んだわけではない人生を必死で生きているのである。

bg_heaven_tengoku.jpgピクサーの新作『ソウルフル・ワールド(原題Soul)』が、ディズニーのオンライン配信サービスで公開されている。主人公の男はジャズピアニストを夢見つつも、中学の音楽教師に甘んじる日々を送っている。ある日地元ニューヨークのクラブでデビューを果たす千載一遇の機会をつかんだのも束の間、浮かれすぎてマンホールに墜落する。天国行きを拒否した彼がたどり着いたのは、人間界への誕生を控えた精霊(ソウル)たちがひしめく世界だった。なりゆき上ソウルの教育係になった彼が引き合わされたのは、人生に希望を見いだせず下界行きを拒絶しつづける札付きソウル「22番」だ。死にたくない男と生まれたくないソウルの駆け引きが、やがて二人を想定外の騒動に巻き込んでいく。

これがディズニー本流のアニメ映画なら、厭世的なソウルが音楽を通じ生きる歓びを知るといった、わかりやすい成長物語になっていたかもしれない。しかしそこはピクサー、手垢のついた人生哲学を片端からひっくり返していく。音楽に没頭する至高の悦びに光を当てつつ、没頭のあまり現実から遊離し抜け殻となった魂を描くことも忘れない。積年の夢を叶える成功を讃える傍ら、まっしぐらの生き様からそぎ落とされる削り屑にかけがえのない輝きを発見する。目標を追い実現することが生きる意味なのか?才能は人生を豊かにしてくれるのか?そうでないなら、生きる幸せとは何なのか?私たちが人生のどこかで直面する問を突きつけながら、それを安易に肯定も否定もしない。

ネタバレになるのでこれ以上あらすじは書かないが、終盤で主人公憧れのミュージシャンがつぶやく短い喩え話が、真髄のほぼすべてを物語っている。

一匹の魚が年かさの魚に言った。
「ぼくは海ってやつを見つけに行くよ。」
「海?いまここが海じゃないか。」
「ここ?これは水だよ。ぼくが求めるのは、海なんだ。」

芥川龍之介は河童の胎児に「僕は生まれたくありません・・・河童的存在を悪いと信じていますから」と語らせたが、妙に達観したこの河童は、老獪で皮肉屋のソウル22番とよく似ている。いくらか芥川本人の思いを代弁しているのかも知れない。芥川龍之介は『河童』を発表したその同じ年、服毒自殺で世を去った。既に文壇での名声も社会的地位も手に入れた偉大な作家だったが、まだ見ぬ大海を無為に追い続けることに疲れたのか。または海に囲まれていることを百も承知で、そこに安らぎを見出すことのできない自身に倦んでしまったのか。

将来の夢とか生きがいとか、人生の崇高な目的を美化する暗黙のプレッシャーに私たちはさらされがちだ。でも自らの意志でこの世に生を受けた人はいないから、そこに大げさな意味を与える義務もない。もちろん夢を叶えることは素晴らしいが、どんなに努力しても手の届かない願いもあれば、逆に目標を達成し燃え尽きてしまうこともある。海を求めて海を泳ぎ回る魚は、夢中になっている間は充実感に我を忘れていられるが、本当は絶えず苦しさと紙一重だ。

そんなとき立ち止まって空を見上げると、何気ない木漏れ日の美しさにふと心を奪われる瞬間がある。人生に大それた目標などいらないと悟ってしまえば、人生は生きるに値すると心で感じることができる。『ソウルフル・ワールド』はそんな映画だが、煩悩多き実生活でこれを実践するのは、案外むずかしい。

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鬼滅の刃、或いはカフカと家族の話 [映画・漫画]

新型コロナはまだ遠い対岸の火事であった今年の正月のこと、おしゃべりな姪の口から飛び出した「キメツのヤイバ」の一言に「え、何の何?」と何度も聞き返してしまった。私が『鬼滅の刃』を初めて知ったのはそのときだったが、姪の解説を聞いて最近の中学生女子は物騒なマンガが好きなんだなと思ったくらいだった。しかし人気がうなぎ登りで劇場版アニメが空前のヒットを飛ばしている今、緑と黒の市松模様や竹を咥えた少女をメディアで見かけない日はない。

nihontou_youtou.png単行本を読破するヒマはないのでTVアニメのダイジェスト版を見たが、なるほど物語がよくできていてキャラクターが個性に溢れている。殺された身内の敵を討つため修行を積んで強くなるストーリーは、スターウォーズやハリーポッターに通ずる基本に忠実なダーク・ファンタジーだ。鬼との戦闘シーンは子供向けとは思えないほど凄惨でグロテスクだが、適宜ユルめのギャグをぶっこんで毒を中和する手加減が心憎い。修行場面のストイックさは昔懐かしいスポ根マンガを彷彿とさせるが、かと言って弱点を克服して強くなる直線的な成長物語ではない。ビビリで拗ねてばかりの善逸とか、自分が一番と認められたくてたまらない伊之助とか、性格にやや難のある隊士が生き生きと活躍する。心の弱さで人を裁かない懐の深さが、大人も魅了される『鬼滅』の人気の源泉ではないかと思う。

そんな優しさと対照的だとふと頭に浮かんだのが、カフカの『変身』だ。グレゴール・ザムザがある朝目覚めると、寝室で巨大な虫と化している。その奇怪な姿に父は拒絶と敵意をむき出しにし、妹は異形のグレゴールを献身的に支えつつも嫌悪感を隠しきれない。高齢の父に代わってひとり家計を支えていたグレゴールだが、その役割を全うできず部屋に閉じこもるやいなや、一転してザムザ家の厄介者に落ちぶれる。当り前と信じていた家族愛がみるみる変質していく現実を、彼はうまく理解できない。大黒柱として頼られたかつての自己像への誇りと郷愁が、グレゴールの心中で空回りする。やがて混乱した彼の思考に芽生える他愛もない反抗心の数々が、状況をことごとく悪化させる。

そして辛うじて優しかった妹がついにキレてしまい、グレゴールは誰にも顧みられないまま自室で息絶える。それまで物語はずっと彼の視点を通して語られていたが、グレゴールの退場により彼の主観から開放された読者は、残されたザムザ一家にとってグレゴールの死は悲劇ではなく解放であったことを知る。小説の幕切れ、父母と妹の三人はグレゴールなどまるで初めからいなかったかのように、清々しい再出発を迎える。『変身』はある意味、善良だが庇護者的な家族観に囚われている(どこにでもいそうな)男の話で、大黒柱の地位を失ったとたん彼の脆いアイデンティティがみるみる崩壊していく悲喜劇である。仮にグレゴールが虫にならずいつか結婚して自分の家庭を持ったとしたら、きっと真面目で勤勉な家長になったに違いないが、夫婦喧嘩になると言葉に詰まり「誰が稼いでると思ってるんだ!」と地雷を踏んでしまうタイプかも知れない。

『変身』の終盤、グレゴールの妹は「あれが本当の兄なら(家族を苦境に追い詰める前に)自分から家を出ていったはずよ」と喝破し、虫の中に兄の面影を求めることを止めてしまう。対照的に、炭治郎は鬼にされた妹の心に本来の禰豆子が生きていることを疑わず、その禰豆子はときに身を挺して兄をかばおうとする。『変身』の家族が役割(親子や兄妹)でつながれたドライな依存関係の典型だとすれば、『鬼滅』の二人は理屈を超えた兄妹愛で結ばれたウェットな絆だ。現実世界を生きる私たちはその両極のはざまで絶えず揺れ動き、家族の想いが噛み合わないと大小さまざまな家庭の問題が発生する。『鬼滅』で擬似家族を作り上げ支配する鬼(累)に炭治郎が対峙するエピソードがあるが、その根底に流れる問いかけも基本的に同じテーマに他ならない。

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ハンマー、ダンス、バイバイン [映画・漫画]

sweets_kurimanju.pngドラえもんに『バイバイン』という話がある。最後の一つとなった大好物の栗まんじゅうを前に悩むのび太に、ドラえもんが助け船を出す。取り出したのはバイバインなる薬で、1個の栗まんじゅうに一滴ふりかけると5分後に2個に増える夢の道具だ。一つ食べて一つ残しておくと、さらに5分後また2つに分裂する。最後の一つをとっておく限り、無限に栗まんじゅうを食べ続けられるわけだ。ただし、放っておくと2つが4つに、4つが8つに、と加速度的に増えていく。容赦なく増殖を続ける栗まんじゅうが、やがてのび太をピンチに陥れることになる。

新型コロナウイルスが急速に再拡大している。人が動き始めればそうなることは理屈ではわかりきっていたが、憎たらしいほどセオリー通りだ。The Hammer and Danceなどと名付けた人がいたが、厳格なソーシャル・ディタンスングやロックダウン(=ハンマー)でひとまず感染拡大の勢いを抑え込んでおき、そのあと慎重に行動規制を緩和してゆき制御可能な範囲で感染を許す(=ダンス)。この繰り返しで乗り切る他ない。

ハンマーの手加減が難しい。弱すぎると効き目が薄いし、強すぎれば社会のあちこちが壊れ始める。ハンマーの破壊力が強大であればあるほど効果絶大かといえば、そうでもない。一部の欧米諸国は厳しいロックダウンを課したが、多くの人は真面目に耐えていても法の眼をかいくぐる不届き者が必ずおり、規制が長引けば我慢できない輩がどんどん感染を広め、結局イタチごっこだ。日本でも特措法を厳格化せよという声は根強いが、法規制を強化すればそれだけ社会が整頓されるという期待はたぶん甘い。結果として問題の根がアンダーグラウンドに潜れば、感染制御はかえって難しくなる。

ダンスの方は、日本語の語感にちょっと馴染みにくい。恋ダンスとかバブリーダンスとかを思い浮かべると何やら楽しそうだが、ここでは意味が違う。むしろ「付かず離れず」とか「駆け引き」のニュアンスに近いのではないか。お互いちょっと気になる二人が探り合いばかりであと一歩踏み込めない状況を、They are dancing around each other. みたいに言うことがある。社会の動きを締めすぎず緩めすぎず、ウイルスを相手にぎりぎりの駆け引きを演じるのがダンスのフェーズだ。少しでもステップを間違えれば、相方にぶつかったり足を踏まれたりする。失敗のダメージが大きいと、またハンマーからやり直しだ。

ほとんどいなくなったように見えても、油断した瞬間からぐんぐん増え始める。ウイルスの薄ら寒い不気味さが何かに似ていると思っていたが、バイバインだ。のび太は満腹で食べきれなくなった栗まんじゅうをママに献上し、それでも残るとしずちゃんとジャイアンとスネ夫に救援を頼むが、どうしても最後に一つ余る。「ハンマーとダンス」に疲れてヤケになったのび太は、残ったまんじゅうを裏手のゴミバケツに捨て知らん顔を決め込む。ドラえもんに問いただされのび太が白状したときには、ゴミバケツから溢れた栗まんじゅうの山で裏庭が占拠されていた(結構ホラーだ)。ドラえもんがロケットで栗まんじゅうを宇宙に送り出すところで、話は唐突に終わる。『ドラえもん』でオチらしいオチを持たないエピソードは珍しく、博識の藤子・F・不二雄すらバイバインの対処に妙案が思い浮かばなかったようである。

栗まんじゅうがその後どうなったのか、諸説ある。遠からず全宇宙が栗まんじゅうで充満するという人もいれば、ロケットが光速近くまで加速すれば相対論効果で5分が無限に近い時間に伸び、増殖が事実上止まるという説もある。はたまた栗まんじゅうの総重量が天体規模になると自己重力で凝集し、そのサイズをシュバルツシルト半径が上回った時ブラックホール化するという主張もある(アンサイクロペディアが詳しい)。幸いにしてバイバインは空想の産物だが、新型コロナのハンマーとダンスは喫緊の現実課題である。解決の糸口がないままゴミバケツに放り込んで見て見ぬ振りをすると、知らぬ間に取り返しのつかない事態に陥りかねないのは、栗まんじゅう問題と変わらない。

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エリオット少年の気持ち [映画・漫画]

alien_ufo.pngこのあいだBSで久しぶりに『E.T.』を見たが、子供の頃に感じた印象といろいろ違って面白かった。孤独な少年が迷子の宇宙人と束の間友情を育む話だと思っていたが、今思えばE.T.にとってエリオット少年は果たして「友人」だったのか?E.T.は突然訳のわからない惑星に放置され途方に暮れていたわけで、友達を作るより一刻も早く助けを呼んで家に帰りたい一心だったはずである。その割に冷蔵庫のビールを勝手に開けて酩酊したりとかなり自由だが、その結果エリオット少年が被る迷惑をまるで意に介していないあたり、友情と言うよりエリオットの片想いに近い。

E.T.自作の通信機を森に設置した夜、本音ではE.T.に帰って欲しくないエリオットは初めてその本心を打ち明ける。ところがエリオットが翌朝目覚めるとE.T.は姿を消しており、捜索に走り回ったエリオットの兄が小川に転落した瀕死のE.T.を発見する。この展開が唐突で、ずっと違和感があった。森でじっと迎えを待っていればよかったはずのE.T.が、なぜ一人で動き回ったのか?小腹が空いてコンビニにおにぎりを買いに行こうとしたわけではあるまい。久々に映画を見返してふと思ったのは、エリオットの告白が重かったせいじゃないか。故郷に帰る期待に頭がいっぱいだったE.T.は、切々と引き留めるエリオットに戸惑い、その場に居づらかったのではないか。

終盤でいったん息を引き取ったE.T.が蘇生するくだりも強引な展開だと思っていたが、地球人に計り知れない各種能力に長けているようなので、自身を仮死状態に追い込んで脱出の機会を作り出すくらいは朝飯前だったのかも知れない。衰弱していくE.T.にエリオットが「逝かないで(Stay with me)」と呼びかけると、E.T.は意味深に「Stay...」を繰り返す。遠のく意識でおうむ返しに復唱しているだけと見せかけ、実は「すぐに生き返るからそこで待っていろ」というエリオットへのメッセージだったとも受け取れる。E.T.がシェイクスピアを読んでいたとは思えないが、言うなれば「ロミオとジュリエット」作戦だ。ロミオはジュリエットの意図に気付かず自ら命を絶ってしまったが、幸いエリオットは土壇場で事の成り行きを悟りE.T.の救出に成功した。

身も蓋もない言い方をすれば、E.T.にとってエリオットは帰還計画に手を貸してくれる好都合な協力者だったわけだ。ただ別れ際エリオットに「おいで(Come)」と誘っているから、本気で宇宙に連れ帰る気があったかはともかく、少なくともお礼に夕飯へ招くくらいの礼節は尽くそうとしたようである。これに対し「行かないで(Stay)」と呟くエリオットの面持ちは、張り裂けそうな諦観に満ちている。困ったE.T.は「ぼくはずっとここにいるから」と指先から念を送る得意のセラピーを試みるが、エリオットの表情は晴れない。ずっと気持ちを閉ざすことに慣れていた少年が、ついに孤独を共有する親友を得たと信じて心を開いてしまったばかりに、溢れる想いがかえって傷口を広げてしまった。別にE.T.が悪いわけではないが、なにかと罪つくりな宇宙人である。ハリウッド的なハッピーエンドで華々しく幕を下ろしながら、去りゆく宇宙船を見送るエリオット少年の、何と寂し気なことか。

ところで『E.T.』当初の脚本(PDFで読める)によると、このエンディングの後に短いエピローグが続くはずだった。以前はみそっかす扱いだったエリオットが、自宅で兄とその友人に混じり互角にゲームに参加している。屋根の上ではE.T.が作った通信機が作動を続け、カメラはその信号の行く末を追うように夜空へ駆け上っていく。渇望した「つながり」を手に入れたエリオットのリア充ぶりを暗示する後日譚だが、結局映画で使われることはなかった。物語の余韻としてはそれが正しい制作判断だったと思うが、おかげで傷心のまま映画史の殿堂に取り残されたエリオット少年が気の毒と言えば気の毒である。

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グリーンブック [映画・漫画]

car_classic.png米国を始め各国で人種差別への抗議活動が高まる中、昨年アカデミー作品賞を受賞した映画『グリーンブック』を思い出した。60年代のアメリカ、ニューヨーク市内の豪邸に住む黒人ピアニスト(ドクター・シャーリー)が臨時雇の運転手兼アシスタント(トニー)と二人で南部を演奏旅行する話である。トニーはナイトクラブの用心棒職を失ったばかりのイタリア系で、貧困層の白人が裕福なインテリ黒人の下で働くという「逆転」関係が面白い。

当時の米国南部はまだ露骨な黒人差別が日常だった時代であり、シャーリーは音楽界のスターとして白人社会から慇懃に迎えられながら、レストランもトイレも共有することを許されない。数多の差別待遇に耐えつつ、シャーリーは高いプライドのせいでたびたびトラブルに巻き込まれる。金のために仕事を引き受けたトニーはもともと黒人蔑視を隠そうともしない男だったが、成り行き上シャーリーの窮地を幾度となく救うことになる。実話が下敷きの映画ではあるが、結局白人をヒーローに持ち上げるお伽噺かと酷評する向きもあった。アカデミー作品賞を競って破れたスパイク・リー監督が悔しさ半分『グリーンブック』をこき下ろした背景にも、そうした不満があったらしい。

だがそういった批判は少し辛辣すぎるように思う。人種問題を題材にしてはいるものの、『グリーンブック』は差別を告発するために作られた作品ではない。映画のドクター・シャーリーは、才能と地位に恵まれながら、白人にも同胞にも受け入れられない孤高の人物として描かれる。クラシックのピアニストとして教育を受けたが、黒人が弾くショパンを望まない白人社会の壁に阻まれ、ジャズ寄りの独自ジャンルに甘んじ商業的に成功する。一方トニーは、腕っ節と野性の勘だけを頼りに生き抜いて来た直感の男だ。旅先から妻に宛てる手紙一つ満足に書けないトニーに、シャーリーは文章の手ほどきをする。しかし道中で惨めな目に遭うシャーリーにトニーが手を差し伸べた理由は、正義感や恩義といった観念的な動機ではない。誇り高きシャーリーが涼しげな仮面の奥に抱える深い孤独を、トニーは本能的に察知していた。ひとえに素朴な人情として、トニーはシャーリーを見捨てられなかったのである。

クラシック界へのコンプレックスを断ち切れないシャーリーに対し、根がシンプルなトニーは彼の音楽を素直に賞賛する。物語の終盤、演奏旅行の訪問先でレストランへの入店を断られた二人はその場を飛び出し、地元の黒人が集うジャズクラブで夕食を共にする。その時トニーに促され、くたびれたピアノに向かう羽目になったシャーリーは、事もあろうか猛然と「木枯しのエチュード」を弾き始める。白人社会から門前払いを受けた彼のショパンは、おそらく作曲者の名すら聞いたことのない聴衆を圧倒し、満場の喝采で迎えられる。シャーリーはこの時、彼の孤独の一部は自身が築いたコンプレックスが囲っていたことに思い至るのである。諍いばかりの男2人が道連れの果てに少しずつ心を開いていく展開は『ミッドナイト・ラン』や『レインマン』の系譜に連なり、その意味で『グリーンブック』はロードムービーの王道と見ることもできる。

私たち誰もが潜在的に抱える差別心理の深層には、「仲間」から「よそ者」を排除する無意識の優越感や防衛本能が潜んでいる。人は人とのつながりの中でしか生きられないから仲間の存在は頼もしいが、連帯感が強すぎると時に息苦しい。仲間から距離を置くには勇気が要るが、よそ者として孤独を引き受ける覚悟を決めたとき、他者に対する負の感情から自由になる。『グリーンブック』はトニーが人種偏見から改心する美談ではないし、黒人を救済する武勇伝でもない。トニー自身の出自も特権階級から程遠く、旅先でイタリア系を見下す警官に蔑まれる。およそ仲間になるはずもなかった二人だが、南部という異世界でよそ者として冷遇される境遇だけは共通していた。だからこそ、人種の違いという心の軛(くびき)から自ずと解放されたのである。

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ワニの話 [映画・漫画]

wani_close.pngオリンピックが延期になり、首都圏で外出自粛が要請され、と前代未聞のニュースが飛び交った一週間だったが、それに先立ち静かに国内の話題をさらっていたワニがいる。きくちゆうき氏がツイッターで描き続けた4コマ漫画『100日後に死ぬワニ』の主人公だ。ゲームとラーメンが好きで恋に奥手で、とくに取り柄はないが根が優しく、もし友達ならきっと普通にいいヤツ。そんなフリーターのワニの眼を通して、思いがけず良いことがあれば少しイヤなこともあったり、でも大抵はとくに何も起こらない、ありふれた日常が淡々と描かれる。ただ一つ普通でないのは、毎日4コマの最後に添えられる「死ぬまであとx日」という不穏なカウントダウンで、3月20日ついに運命の日を迎えた。私はシリーズ完結後に話題を聞きつけて100回分をまとめて読み返したのだが(10分もかからない)、時折ドキッとするエピソードが仕込んであるものの99日目まで死を匂わせる影もなく、むしろ春の訪れに気分が盛り上がっていく気配すらあった。だからいっそう、(毎日予告されていたにもかかわらず)いきなり突き放されたような最終話の幕切れに戸惑う。

この読後感と似た感触の映画を見たことがある。イギリスを舞台にした風変わりで物静かな作品『Still Life』で、タイトルのとおり何ら劇的なできごとは起こらない物語だ(邦題は『おみおくりの作法』)。主人公ジョンは、孤独死の遺体を引き取り公的に埋葬する仕事をしている。判を押したように職場と住まいを往復する独り者のジョンにとって、遺品の山に丹念に目を通し一人静かに故人の生前に思いを馳せる毎日が生活のほぼすべてだ。誰にも看取られず世を去った彼/彼女はかつて何に夢中になり、どんな人を愛し、どんな神を信じ、そして何を心の拠り所に生きていたのか。ジョンはできる限り故人に相応しい葬儀をあつらえ、そのただ1人の立会人として丁重に見送る。しかし効率を度外視した彼の仕事ぶりは職場で評価されず、ジョンはある日人員整理で居場所を奪われる。

最後の仕事となった死者の生前を調査する旅に出たジョンは、限られた手掛かりを追っていくうち音信不通だった故人の娘に行き当たる。彼女と会話を重ねるうち、長いあいだ一条のさざ波すら立たなかったジョンの心に、ふと暖かいそよ風が吹き込む。一台も車の来ない道で必ず左右を確認していた彼の生真面目な生活が、少しずつ華やぎを増し活気づいていく。そしてなんの前触れもなく、悲劇が起こる。物語の結末は皮肉めいて残酷だが、心を砕いて孤独な死者を弔い続けたジョンを暖かく見送るエンドロールが、そっと心に染みる。

テレビやネットでは新型肺炎による死者数が連日淡々と報道される。積み上がる数字の裏には、その数だけ突然断ち切られた喜怒哀楽の日々が溢れていたはずだ。『100日後に死ぬワニ』で描かれる世界に広まりゆくウィルスの影はないが、死が統計に呑み込まれていきがちな今だからこそ、不慮の死で絶たれた一人(一匹か?)の平凡な100日を丹念に追ったストーリーが多くの人の心に響いたのだろうか。完結直後に各種コラボ企画が発表されたせいで結局金儲けかと炎上したそうだが、個人的には別に金儲けでもいいじゃないかと思うものの、ワニの一喜一憂を他人事ながら見守った100日間がたちまち市場経済に呑まれ消えていくのが寂しかった人もいたかと想像する。身寄りのない赤の他人をジョンが丁寧に弔ったように、フィクションのキャラクターすら簡単に心から拭い去れないように人間は本来できているのである。

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スターウォーズ42周年 [映画・漫画]

vader_and_luke.gifスターウォーズ9作が完結した。第1作(エピソード4)が公開されたのは1977年だから、五十路が近い私にはかろうじて同時代を歩んできた感があるが、若い世代にとっては西部劇の続編がいまだに続いているのと変わらない古典のイメージかもしれない。ただし先住民に対する白人の優越意識が見え隠れする(とくに初期の)西部劇とは対照的に、スターウォーズは基本的に政治的弱者の視点から語られる物語だ。銀河帝国軍の高官はみなナチスドイツを思わせる制服に身を包んだアングロサクソン系俳優が演じるが、帝国の圧政に立ち向かう反乱軍は多様な被り物キャラがひしめき合い、ハリウッド映画における人種的多様性のはしりではないか。

よく言われることだがスターウォーズは東洋趣味にあふれている。派手な銃撃戦のあげく最後はなぜか素手で殴りあうハリウッド活劇のお約束と一線を画し、スターウォーズの見せ場はライトセーバーで繰り広げられる華麗なチャンバラである。ダースベーダーのマスク形状は戦国武将の兜を思わせるし、ルークの最初の衣装はどう見ても柔道着だし、霧深い森にひとり住む小柄なヨーダはまるで仙人の佇まいである。ジョージ・ルーカスが敬愛する黒澤明の作品をヒントにスターウォーズを構想したというから、日本人の目にどこか懐かしく映ったとしても偶然ではない。

スターウォーズの世界観の真髄は、「フォース」が持つ善悪の二面性にある。力がもたらす悪への誘惑という着想自体は珍しくないが、たとえ無私無欲の正義漢であっても敵への怒りに我を忘れた瞬間ダークサイドへ転落するというフォースの禁欲志向が面白い。旧三部作の山場(エピソード6)でダースベーダーに挑んだルークは、怒りに身を任せねば格上のベーダーと互角の勝負は難しいが、かと言って自制を失いベーダーにとどめを刺すと自分が悪の化身に成り代わってしまうジレンマに直面する。義憤に燃えるヒーローに無条件の制裁権を認めがちなハリウッドにあって、敵を力で倒せば己に負ける、という哲学は異彩を放っている。結局、ベーダーが最後に寝返ったおかげでこのジレンマは自ずと解消した。しかし新三部作(エピソード1-3)で銀河皇帝にヘッドハンティングされたアナキンは、ルークと違ってダークサイドの父も生き別れの妹も何だかんだ言いつつ最後には助けに来るハン・ソロのような友人もいない孤立無援の状態で、皇帝の企みに乗ってベーダーと化すしか選択肢がなかった。アナキンの心が弱かったというより、ルークほどツイてなかったというだけである。

新三部作完結から10年を経て公開が始まった続三部作(エピソード7-9)は、ルーカスフィルムがディズニーに買収されて以降の作品であり、ジョージ・ルーカス本人は制作から遠ざかっている。彼自身が構想していた続三部作は、本人のボヤキによれば実際の映画と似ても似つかぬ相当マニアックで難解な物語だったらしい。ディズニー色の続三部作は誰でも楽しめるエンタテイメントにきっちり仕上がっているが、同時に旧三部作の哲学への敬意も忘れない丁寧な仕事で、往年のファンにも概ね支持されたようである。そのせいかストーリーの焼き直し感がなくもないが、闘うヒロインのレイに絡むカイロ・レンが内向的で繊細なアンチヒーローだったり、人物造形の趣向に時勢を匂わせる違いもある。

若き日のレイア姫もかなり勝気なヒロインではあったが、続三部作のレイほど切羽詰まった悲壮感はなかった。いつも歯を食いしばっている求道的ヒロインという面では、レイはどこかナウシカを思わせる。双肩に世界の命運を背負う苦しさも、善悪の境界が揺らいでいく不安に怯える孤独の深さも、(とくにコミック版の)ナウシカとよく似ている。クロサワ映画にインスパイアされて始まったスターウォーズは、40年超の時を経たいま宮崎駿作品の背中を追っているということか。

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男はつらいよ50周年 [映画・漫画]

来年ドラえもん50周年を迎えると先週書いたが、奇しくも今年は『男はつらいよ』映画第一作から50周年でもある。この年末には往年のキャストが同窓会のように集結し新作が公開されるらしい。しかも寅さん本人が4Kデジタル修復で蘇るという触れ込みだ。よくわからないが何だかすごい。

eiga_kachinko.png渥美清の生前に作られた『男はつらいよ』シリーズは48作ある。寅さんが旅して恋してフラれる、という水戸黄門ばりの鉄板ストーリーでファンの期待を裏切らない。だが失恋パターンには何通りかあって、マドンナが寅さんの本心に気付いてすらいないこともあれば、実質的には寅次郎のほうが好きなはずの相手をフッていることもある。寅さんは恋を妄想し始めるとなりふり構わず暴走するのに、いざ妄想が実現しそうになったとたん急にそのリアリティが怖くなって逃げ出すのである。そんなとき笑ってごまかす寅さんを見つめる妹のさくらは、いつも泣きそうな顔をしている(本当に泣いてしまう回もある)。人並みの幸せを受け止めるには諦観の深すぎる寅次郎がさくらにはもどかしくてならない反面、兄の孤独を誰よりもよく理解しているのもまた彼女のようである。

シリーズ後半から準主役級の存在感を放ち始めるのが、さくらと博の一人息子満男である。大人社会のしきたりから自由な寅さんと、世間の良識を代表するさくらとその家族。この相容れない価値の衝突が『男はつらいよ』の可笑しさと哀しさの源泉であるが、満男はやがて居場所を求めてそのはざまを彷徨うようになる。思春期の悩みに悶々とする満男に寅次郎は何ら実践的な解決を示すわけではないが、世間的な成功とか安定とは無縁のところで生き延びてきた寅さんのおおらかさに、さくらや博の親心とは別次元の優しさを満男は嗅ぎとるのだ。これはまた、ワケありのマドンナたちが寅さんに惹かれる理由でもある。

話は変わるが、映画『ニュー・シネマ・パラダイス』で恋に夢中なトト青年にアルフレード老人が語り聞かせるこんな寓話がある。とある国の王女様に護衛の兵士が恋をした。身分違いと知りながら気持ちを抑えられない兵士は、ある日王女に思いを打ち明ける。驚いた王女は、それなら私のバルコニーの外で100日間待っていなさい、100日目にあなたの気持ちに応えましょう、と告げる。喜んだ兵士は王女のバルコニーの下に椅子を置いて座り込んだ。10日、20日がたち、50日が過ぎ、風の日も雪の日も兵士はひたすら待ち続けた。90日が過ぎる頃には、兵士の肌は干からびて真っ白になった。しかし99日目の夜、兵士は不意に立ち上がると椅子を持って王女の前から姿を消してしまう。アルフレードはその理由を語らず、トトも観客も煙に巻かれる。でも私は、この兵士に寅次郎の遠い面影を見る。

『男はつらいよ』は一見あまりに日本の下町的な人情話で、海外とくに欧米圏では理解されにくいのではないか、と思われるが案外そうでもない。寅さんがウィーンに行く話があるが、これはもともと出張中の機内で『男はつらいよ』を見た当時のウィーン市長が感激し誘致したのがきっかけだという。先の話で王女に恋い焦がれた兵士は、夢想が現実になる瞬間を目前にした99日目、寅次郎と同じくその重さに耐えられなくなったのではないか。根っから純粋なこの兵士には、手の届かない幸福を永遠に求め続けることだけが心の糧だったのである。日本映画とイタリア映画に登場する縁もゆかりもない二人の人物に同じ匂いを感じるのは単なる偶然か、それとも洋の東西を問わない人間の哀しさなのか。

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ドラえもん50周年 [映画・漫画]

『ドラえもん』の連載が始まったのが1970年1月、来年で50周年を迎える。生みの親の藤子・F・不二雄氏が他界してなお毎年のように長編映画が作られる類まれな国民的漫画が、ついに半世紀の節目を迎える。オリンピック・イヤーなどと浮かれている場合ではない。

Draemon1.pngとくに初期・中期のドラえもんがいい。単行本で言えば30巻くらいまでが黄金期か。ドラえもんはもともと、結構おっちょこちょいで危なかしかった。のび太からどら焼きにつられて宿題代行を請け負う羽目になったドラえもんが、苦肉の策でタイムマシンを使い数時間後の自分自身を大量招集したあげく、内輪揉めでボコボコにされる話がある。他にも近所の猫に恋して骨抜きになったり、ネズミ怖さに正気を失い地球破壊爆弾なる物騒な代物を取り出したり、諌めるのび太の方が大人びて見えるエピソードに事欠かない。それがドラえもんの愛嬌であり、ロボットらしからぬ人間臭さの源であった。のび太にとっては単なるお目付け役を超えた存在だったからこそ、体を張ってでも未来に帰るドラえもんを安心させようとしたのである。ところで話は逸れるが、家庭用ロボットが大量破壊兵器にアクセスできる未来世界の安全保障体制はいったいどうなっているのか。核拡散への懸念が広がる昨今の国際政治事情に重ねると、将来に何やらキナ臭い不安を禁じ得ない。

しずちゃんはフェミニスト受けが悪いようである。主要登場人物の中では紅一点で、男子が憧れる可愛い女の子という記号を演じていると言われればそうかも知れないし、入浴シーンが無駄に多いのも事実である。とは言えしずちゃんがいつも風呂に入っているのは単に本人が風呂好きだからであって、他人にとやかく言われる筋合いはない。そもそもしずちゃんは人に媚びる性格ではないし、優しいときも怒るときも自分の価値観に芯が通ってブレない。男友達には基本的に等距離で接するし、あの出来杉君さえことさら特別視はしない(のび太が勝手に嫉妬しているだけである)。ちびまる子の親友たまちゃんと並んで、小学生としては相当に人間のできた少女である。

ジャイアンの暴力的な性格は弁明の余地がない。しかし内面はかなり複雑な少年であり、繊細なガラスの心の持ち主でありながら、義理を重んじここぞという場面で骨太な男気を発揮する。母親にはめっぽう弱いが、妹思いの優しい兄の側面も持ち合わせる。だから『さようならドラえもん』でのび太にけんかを売ったジャイアンは、事情を知ってわざと負けたとのだ私は密かに信じている。非力なのび太を相手に大したダメージを受けていなかったジャイアンが、ドラえもんが駆けつける頃合いを狙ったかのように突然降参するのは、偶然にしては出来すぎていないか。

スネ夫はもっぱら「強きを助け弱きをくじく」ネガティブな印象が強い。高慢とかズルさとか自己顕示欲とか、大人社会でも「ああこんなやついるよな」という負の性格要素を一手に引き受けている。その意味では、話に絶妙なリアリティを添える重要な役回りだ。仮にスネ夫のいない『ドラえもん』を思い浮かべてみると、筋立てとしては成り立ったとしても何か物足りない気がする。

『ドラえもん』の主人公はドラえもんだと思っている人がいるかも知れないが、のび太が主役である。1巻はのび太の部屋の引き出しからいきなりドラえもんが飛び出して来るところから始まるように、のび太の視点で展開する物語だ。テストはいつも0点、運動神経もゼロ、ジャイアンにはいつも追いかけられ、スネ夫にはバカにされる。これだけ容赦ない設定を与えられながら、のび太には不思議と屈折した悲壮感がない。しずちゃんのパパをして「人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる」と言わしめたように、素顔ののび太は根が優しくて心の真っ直ぐな少年である。物語に表立って現れることは少ないが、のび太の基本的なタチの良さが『ドラえもん』の衰えぬ人気を支える安定感の礎なのだと思う。

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