SSブログ

グリーンブック [映画・漫画]

car_classic.png米国を始め各国で人種差別への抗議活動が高まる中、昨年アカデミー作品賞を受賞した映画『グリーンブック』を思い出した。60年代のアメリカ、ニューヨーク市内の豪邸に住む黒人ピアニスト(ドクター・シャーリー)が臨時雇の運転手兼アシスタント(トニー)と二人で南部を演奏旅行する話である。トニーはナイトクラブの用心棒職を失ったばかりのイタリア系で、貧困層の白人が裕福なインテリ黒人の下で働くという「逆転」関係が面白い。

当時の米国南部はまだ露骨な黒人差別が日常だった時代であり、シャーリーは音楽界のスターとして白人社会から慇懃に迎えられながら、レストランもトイレも共有することを許されない。数多の差別待遇に耐えつつ、シャーリーは高いプライドのせいでたびたびトラブルに巻き込まれる。金のために仕事を引き受けたトニーはもともと黒人蔑視を隠そうともしない男だったが、成り行き上シャーリーの窮地を幾度となく救うことになる。実話が下敷きの映画ではあるが、結局白人をヒーローに持ち上げるお伽噺かと酷評する向きもあった。アカデミー作品賞を競って破れたスパイク・リー監督が悔しさ半分『グリーンブック』をこき下ろした背景にも、そうした不満があったらしい。

だがそういった批判は少し辛辣すぎるように思う。人種問題を題材にしてはいるものの、『グリーンブック』は差別を告発するために作られた作品ではない。映画のドクター・シャーリーは、才能と地位に恵まれながら、白人にも同胞にも受け入れられない孤高の人物として描かれる。クラシックのピアニストとして教育を受けたが、黒人が弾くショパンを望まない白人社会の壁に阻まれ、ジャズ寄りの独自ジャンルに甘んじ商業的に成功する。一方トニーは、腕っ節と野性の勘だけを頼りに生き抜いて来た直感の男だ。旅先から妻に宛てる手紙一つ満足に書けないトニーに、シャーリーは文章の手ほどきをする。しかし道中で惨めな目に遭うシャーリーにトニーが手を差し伸べた理由は、正義感や恩義といった観念的な動機ではない。誇り高きシャーリーが涼しげな仮面の奥に抱える深い孤独を、トニーは本能的に察知していた。ひとえに素朴な人情として、トニーはシャーリーを見捨てられなかったのである。

クラシック界へのコンプレックスを断ち切れないシャーリーに対し、根がシンプルなトニーは彼の音楽を素直に賞賛する。物語の終盤、演奏旅行の訪問先でレストランへの入店を断られた二人はその場を飛び出し、地元の黒人が集うジャズクラブで夕食を共にする。その時トニーに促され、くたびれたピアノに向かう羽目になったシャーリーは、事もあろうか猛然と「木枯しのエチュード」を弾き始める。白人社会から門前払いを受けた彼のショパンは、おそらく作曲者の名すら聞いたことのない聴衆を圧倒し、満場の喝采で迎えられる。シャーリーはこの時、彼の孤独の一部は自身が築いたコンプレックスが囲っていたことに思い至るのである。諍いばかりの男2人が道連れの果てに少しずつ心を開いていく展開は『ミッドナイト・ラン』や『レインマン』の系譜に連なり、その意味で『グリーンブック』はロードムービーの王道と見ることもできる。

私たち誰もが潜在的に抱える差別心理の深層には、「仲間」から「よそ者」を排除する無意識の優越感や防衛本能が潜んでいる。人は人とのつながりの中でしか生きられないから仲間の存在は頼もしいが、連帯感が強すぎると時に息苦しい。仲間から距離を置くには勇気が要るが、よそ者として孤独を引き受ける覚悟を決めたとき、他者に対する負の感情から自由になる。『グリーンブック』はトニーが人種偏見から改心する美談ではないし、黒人を救済する武勇伝でもない。トニー自身の出自も特権階級から程遠く、旅先でイタリア系を見下す警官に蔑まれる。およそ仲間になるはずもなかった二人だが、南部という異世界でよそ者として冷遇される境遇だけは共通していた。だからこそ、人種の違いという心の軛(くびき)から自ずと解放されたのである。

共通テーマ:日記・雑感