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向田邦子のエッセイ [文学]

とある方のインタビュー記事で、こんな逸話に出会った。小学生の頃、学校から帰宅の時分ドシャ降りに遭った。家が近かったので、自宅の傘をいくつかひっつかんで学校へ戻り、傘がなくて困っていた先生に貸そうとした。ところが蛇の目の柄が気に入らなかったか、「こんな傘がさせるか」と不機嫌に突き返されてしまう。ひどく傷ついた彼女は帰宅後、歳の離れた姉にその出来事を訴えた。すると姉が言うには、大人も子供と同じように好みがあって、虫の居所が悪いときもあるから、理不尽な言い分で人に当たることもある。でもあなたのやったことはとても素晴らしい。彼女はその姉の言葉にとても救われた、というような話である。当時20歳とは思えぬ達観した温かい言葉で妹に寄り添った姉は、若き日の向田邦子さんである(インタビューに答える女性は末妹の和子さん)。

book.png先日たまたま自宅に『向田邦子ベスト・エッセイ』という本を見つけて、懐かしくなった。向田邦子のエッセイに目を通すのは、学生の頃ハマって読破して以来だからほぼ30年ぶりだ。お父上が無愛想で怒りっぽい昔ながらの大和男子で、子煩悩な本心を素直に表現する術を知らない。『父の詫び状』を始めたびたびエッセイに登場する不器用な父を、向田邦子は上品なユーモアを交え淡々と描く。でも「ちょっといい話」的な毒抜きされたほのぼの感とは、すこし違う。人の心のひだを見通す眼差しは触れれば指を切りそうなくらい鋭いのに、刃先を他人に向けることは絶対にない。聡明で思いやりの染み渡った美しい文章は、いつも諦観に近い寂しさが仄かに漂う。

『噛み癖』というエッセイで、彼女がかつて飼っていた大型犬の話が登場する。気立ての良い犬だったが、見境なく甘噛みする癖があった。隣人を追い回しては服の裾を駄目にしてしまう失態を繰り返し、ついに保健所送りになってしまった。見送る最後の日に大好物のソーセージを買い込んでくるが、駅で袋が破れホームにぶちまけてしまう。居心地の悪い視線を背に受けソーセージを拾い集めながら、人じゃないの犬が食べるの、いいヤツだったけど保健所に行かなくてはいけないの、と心のなかで叫ぶ。そのくだりを読みながら、むかし私の実家で飼っていた犬の二代目を思い出した。白黒モノトーンのおてんば娘で、名前をコムといった。

コムは私がしゃがんで相手をすると大喜びで飛び跳ね、しまいには決まって私の背中によじ登る。犬は群れの習性が刷り込まれているので、飼い主一家の下っ端をまず乗っ取ろうと企んでいると聞いたことがあるが、私が家族で一番年下であることを察知していたのかも知れない。だが両親が離婚したときコムを手放さざるを得なくなり、知人のつてで面識のない一家に引き取ってもらうことになった。何も知らないコムは、旅立つ日の朝も出かける私にいつものように飛びつき、そそくさと出て行く私を不満げに見送った。それが私が目にしたコムの最後の姿で、その日以来いちども犬を飼っていない。

コムの引き取り先を親から聞き出し、こっそり様子を見いくことも考えたが、結局行かなかった。家の事情で追い出してしまった疚しさもあって、慣れない犬小屋で心細く鳴いているコムを見たくはなかった。飼い主の気持ちは身勝手なもので、逆に新しい家族にはやばやと馴染んでいたら、それはそれで複雑な心境になっていたに違いない。事情は違うけれど、向田邦子さんが愛犬を手放したときの心中が、少しわかるような気がする。胸のうちをそのまま文章にさらけ出す人ではないから、愛犬との別れのシーンが何故かソーセージのエピソードになる。でも不思議なことに、人混みで這うようにソーセージを回収する彼女の背中を思い浮かべると、張り裂けそうな心痛がひしひしと伝わってくるのである。

向田邦子のエッセイの中で一つだけ、率直に心中を吐露した異色作がある。『手袋をさがす』という長めの随想で、気に入った手袋が見つからず、凍える手のまま寒い冬を越した意地っ張りな若き日の回想で始まる。自分の欠点や境遇が気に障り、そうやって苛立つ我が身を冷静に見つめてまた嘆息する。持ち前の人間観察力で自己分析を試みたなどと生易しいレベルではなく、人には決して向けない刃を自分の喉元に突きつけ、薄く血が滲み出すような痛々しさに満ちている。人並外れた才能で手に入れた人気放送作家の地位と、世間並の幸福に手が届かなかった喪失感のあいだで振り子のように揺れ続ける、満たされない渇望。若い頃に読んだときは息苦しさに面食らったが、今読み返すと、揺れたままの振り子を丸ごと受け入れ胸を張って生きる彼女の覚悟が沁みる。

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