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がんばれBS [社会]

今日は東京都の新規陽性者数が◯日ぶりに1,000人を下回りました、再び1,000人を超えました、と毎日几帳面に騒ぐメディアがいまだに多い。一歩引いてグラフを見れば、日々の変動の大部分は統計上の雑音にすぎないことが一目瞭然なのだが。データの推移から意味のある情報を伝えたいなら、せめて7日移動平均くらい目配りしてから物を言ってはいかがか。ちなみに東京都が出す陽性率は、7日移動平均の陽性者数と検査人数の比を使っているが、1月7日頃に15%まで迫って以降きれいな下降線をたどり、しばらく前から10%を切っている。

news_wideshow_serious.pngテレビの報道番組は、ショッピングモールのフードコートに似ている。地上波のゴールデンタイムは、さながらファーストフードの大手チェーンが軒を連ねる一角だ。誰でも知っているブランド、わかりきった味、たっぷりの添加物、偏りがちな栄養バランス。何も食べないよりはジャンクフードでも口に入れるほうがいいが、栄養価の低い情報を摂取し続けるのは体にあまり良くない。各局の看板番組をハシゴしてみると、申し合わせたかのように感染動向に一喜一憂する無邪気な熱量が、少々胃にもたれる。

一方、BSには個性的で優れた番組が多い。報道系では、BSフジの『プライムニュース』が見応えがある。進行役を務める反町理キャスターがいい。局を問わず数多いる現役キャスターの中で、ピカイチ頭の切れる人物ではないか。海千山千のゲストを相手に、抜群の知的反射神経でぐいぐい食い込んでいく丁々発止のやり取りが面白い。それでいて攻撃的になりすぎず、相手の出方次第ではお茶目に頭を掻いて矛を収める手加減も心得ておられる。これを連日2時間ずつこなし続けているのだからすごい。ひところ別番組に異動になって寂しい思いをしていたら、一年で復帰されたのでホッとした。反町ロスの視聴者が相当数いた、ということではないか。

BS-TBSが裏番組で『報道1930』をぶつけている(『プライムニュース』より30分早いフライングスタートだ)。こちらの松原耕二キャスターも落ち着きのある名進行役だが、どういうわけか『報道1930』は時々コメンテーターの人選を誤る傾向がある。なぜこの人(誰とは言わない)をゲストに呼んでしまったか、という残念回が半周期的に巡ってくる。とは言え、基本的には情報密度の濃い好番組だ。

地上波とBSではCMのお金のかかり具合が見るからに違うので、民放各局にとって地上波が稼ぎ頭であることは間違いない。ただ低予算のBSは視聴率にあまり左右されないせいか、逆にのびのびと好印象の番組が目立つ。報道系の他では、海外を訪れる旅番組で味のあるシリーズがいくつもあって以前よく見ていた(コロナ中の今はロケ困難と思うが)。一旅行者の視点で現地をぶらぶら歩き地元の人と交流するだけの企画が多く、要は資金がないのでディレクターとカメラマンと現地コーディネーターだけで撮りためているのだと思うが、最小限のスタッフで内容を磨く工夫の妙が冴えていた。地上波の旅番組は下手に予算があるからか、旬の芸能人を世界の観光名所に送り込むもったいぶった特番を組み、クサめのコメントで感動を演出したりするのでどうしてもシラけてしまう。もちろん『世界ふしぎ発見』のように、流行りを追わず良質な海外ロケで上手に見どころを作る老舗番組もある。ふしぎ発見もコロナ状況下の番組制作には苦労しているようである。

バーガーとフライドポテトを頬張るのも時には楽しいけれど、歳を重ねると脂っこい食事がだんだん苦手になる。フードコートの賑わいに隠れがちだが、専門店フロアの片隅には地味だけど気の利いた小料理屋がある。試しにふらりと暖簾をくぐると、思いのほか美味しくて滋養のある一品を見つけ、舌鼓を打つ。BSにはそんな番組がいくつもあって、各放送局の意外な底力が垣間見える。

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グリゴリー・ソコロフ [音楽]

music_gakufu_open.png10年以上前になるが、フランクフルトで開催されたワークショップに招かれて参加した折、仕事を終えた夜に現地のホールでピアノ・リサイタルを聴いた。しがない研究者の端くれにとって異例のVIP待遇なのだが、ワークショップ主催者が参加者全員を招待してくれたのである。プログラムを見ると聞き覚えのないピアニスト(ロシア系と思われる名前)で、ステージに現れたのは恰幅の良い中年紳士だった。一つ一つの音を慈しむように弾く素敵なピアニストで、2時間程があっという間の素晴らしいコンサートで嬉しくなった。中でも頭に焼き付いているのはモーツァルトのヘ長調ソナタK332で、とくに第2楽章の透き通るような美しさが帰国後も頭から離れない。古い楽譜を棚の奥から引っ張り出し、憑かれたように曲をさらった。一度きりのリサイタルで、そこまで発奮させる演奏に巡り会えることは滅多にない。

当時のプログラムが手元に残っていないので、あのピアニストの名を思い出す術はない。恰幅の良いロシア系ピアニストなら無数にいそうなので、これだけでは特定する手掛かりにならない。近頃私のマイブーム一位に躍り出たグリゴリー・ソコロフ(Grigory Sokolov)も、立派な胴回りで貫禄たっぷりだ。ソコロフは1966年に弱冠16歳でチャイコフスキー・コンクールを征し彗星のようにデビューしたが、鉄のカーテンのこちら側にとっては長らく幻のピアニストだった。ペレストロイカ以降は、欧州を中心に西側でも演奏活動を本格展開するようになった。しかしご本人が飛行機嫌いだそうで過去30年一度も来日公演が実現していない上、スタジオ録音もお嫌いでなかなか演奏に触れる機会がない。

幸い5年くらい前にドイツ・グラモフォンがついにソコロフと契約にこぎ付け、過去のライブ音源が少しずつ出回り始めている。ソコロフのピアノはどちらかというと遅めのテンポが特徴で、消え入りそうな静謐さもほとばしる激情も他のピアニストと明らかに違う独特の呼吸が息付き、しかしその全てがこの上ない音楽的必然性と完成度で迫ってくる。世界最高の現役ピアニストの一人としてコアなファンは多いが、無知な私は最近ようやくソコロフをYouTubeで発見し、たちまち虜になってしまった次第である。

グラモフォンのソコロフ・シリーズの一つに、2008年ザルツブルクで録られたライブCDがある。曲目リストを見ると、あのモーツァルトのK332も入っている。あれ?2008年といえば、例のワークショップがあった年だ。恰幅の良い中年紳士、ロシア系の名前。まさかとは思うが、私がフランクフルトで聴いたあのピアニストは、ソコロフその人だったのではないか?実際にザルツブルクの録音を聴くと、落ち着いたテンポで魔法のように紡ぎ出される音楽が、じわじわと記憶をくすぐる。半信半疑でググってみると、何とワークショップ開催週半ばの2008年3月5日、フランクフルトの旧オペラ座でソコロフが同じモーツァルトを弾いた記録があるではないか!私があのとき名前すら知らずに聴いて感激したピアニストは、世界中のファンがいつか生演奏に立ち会いたいと熱望する、生ける伝説だったのである。

ちょっとマニアック過ぎて伝わらなかったかも知れない。例えるなら、幼いころキャッチボールに付き合ってくれた近所のお兄さんが実は中学時代のイチローだったとか、むかし落とした財布を拾って届けてくれた女性がブレイク前のガッキーだったとか、ありえない出会いの真相をずいぶん後になって知った衝撃を妄想してほしい。ソコロフを生で聴きたくても機会に恵まれず悶々とする日本のファンに、彼のリサイタルに無自覚に居合わせたなどと告白しようものなら、きっと首を絞められるに違いない。

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潮目が変わる [社会]

iryou_choushinki.pngコロナ第二波までの頃に比べ、世論の潮目が変わってきたなと感じることが幾つかある。一つは医療への眼差しだ。日本は民間病院でコロナ患者を引き受けている割合がかなり低いとか、回復した重症患者の転院先が見つからず病床が空かないとか、医療が必ずしも一枚岩ではないことを匂わせる報道が目に見えて増えた。献身的な医師や看護師の使命感には今でも頭が下がる思いだが、少しでも批判めいた発言を口にすることも憚られる「聖域」だった医療が、もはや神聖不可侵とは見做されなくなった。

医師会などが外出自粛呼びかけに積極的に声を上げ続けてきた努力が、裏目に出始めている気配もある。医療現場の悲鳴が毎日のようにネットやテレビで鳴り響くので、普段から感染対策に心を砕いている人までずっと責められている気分になる。これが一年続いた結果、医療が大変なのはわかるけど・・・とみんな食傷気味だ。そんなとき民間病院の8割弱はコロナ患者を診ていないと聞かされると、正直モヤッとする人も多いだろう。国内の民間病院は充分な感染対策を講じるインフラや人員が確保できない中小病院が多いとかで、一部に過酷な負担が集中するのは日本医療が抱える構造的な問題のようだ。国はというと、コロナ患者の受け入れ勧告を拒む医療機関名は公表するなどと、脅しに近い腹案までチラつかせている。下手をすれば、このまま政府も国民も医療から心が離れていきかねない。医師会は、広報戦略を仕切り直す局面に来ているのではないか。

潮目が変わったもう一つは、東京オリンピック・パラリンピックだ。国内世論は、しばらく前から懐疑的な意見が大勢を占めている。表向きは相変わらず強気の森喜朗組織委員会会長が、内輪の講演会で「内心もしかしたらという思いがないわけではないが」と珍しく弱気の本音を漏らしたという。口が滑ったのかも知れないが、滑ったと見せかけて中止ないし再延期に向けた最初の布石を打ったか、と穿った見方もできなくはない。ほぼ時を同じくして、河野太郎行革相が延期や中止(とは言わなかったが)に含みを残すニュアンスでオリパラに言及し、内外のメディアをざわつかせた。実際のところ曖昧過ぎて何も言っていないに等しかったのだが、閣僚の口から曖昧な発言が出ると当然真意を勘繰られるし、政治家ならそれくらいの反応は想定内で物を言っているはずだ(この人の場合は単に正直すぎるだけかも知れないが)。

たくさんの人が動けばたちまち感染が拡大することを、私たちはすでに嫌というほど学んだ(オリンピックのリスクについては昨年5月の記事から私の感触はあまり変わっていない)。自由に観客を入れる開催形態は、現状では想像し難い。仮に無観客としても、オリンピックの規模では相当数の選手やスタッフとメディアが、ありとあらゆる国から訪れる。日本のコロナ医療キャパを思い返せばなおさら、今夏のオリパラ決行に前向きになれる要素はほとんどない。タイムズ紙が何やら不穏な報道をしたようで、政府も組織委員会も立場上簡単に投げ出すわけには行かないと思うが、水面下では最もダメージの少ない引き際を必死に考えていたとしても不思議ではない。

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鼻マスクの受験生 [社会]

大学入学共通テストが終了した。旧センター試験に代わる新しい共通入試制度だが、英語民間試験の活用や記述式試験など改革の目玉が立て続けに頓挫した上、想定外のコロナ禍に見舞われた。受験生をはじめ関係者の苦労が忍ばれる。

mask_man_ng_hana.png共通テストに関して、奇妙なニュースが世間をちょっとざわつかせている。正しくマスクを着用していなかった受験生が試験官の注意に従わなかったため、不正行為として失格となったという。マスクから鼻が出ていたということで、街の声は厳しすぎないかという意見と処分妥当との見解に割れているようである。もちろん、鼻マスクだけで一発退場になるわけがない。試験官は6度にわたる注意を行ったが、問題の受験生は指示を無視し続け、最後はトイレに長時間立てこもって抵抗を試み警察に現行犯逮捕されるという珍事件に発展した。息苦しくてマスクを思わずずらしてしまった、というレベルの話ではないようである。

センター試験監督の経験から言えば、不正行為勧告など出さなくて済むならもちろん出したくない。人生を掛けて受験に来ていることくらい、試験官もよく分かっている。あからさまなカンニングが露見したならまだしも、微妙な規定違反の疑いだけで即レッドカードにはまずならない(不正行為を認定するまでの段取りは慎重に定められている)。息を楽にするためつかのま鼻を出すくらいだったら、再三にわたり注意する事態には至らないはずだ。想像だが、ほとんど顎マスクに近い状態だったとか周囲の受験生が動揺する何らかのインパクトがあったから、看過できない案件だと現場が判断したのではないか。

昨年ピーチ便機内でマスク着用を拒否し、搭乗機から降ろされて論議を呼んだ人物がいたことを思い出す。本人にはいろいろ言い分があると思うが、社会にもルールがある。逮捕された受験生も、今後は警察沙汰になる前に自我と社会との賢明な接点を探り当てる、大人の責任を学んでいって欲しい。と書きたいところだが、報道によればこの受験生は49歳の立派な成人だそうである。ピーチ便を緊急着陸させたノーマスクの人(奇しくも今日逮捕されたらしい)はその後ホテルのバイキングでもひと悶着やらかしたそうだが、今回もまさか同一人物じゃないよね。

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プロはアマのために、アマはプロのために [音楽]

正月番組の金字塔『芸能人格付けチェック』で、吹奏楽のプロとアマチュアを聴き分ける企画がある。suisougaku.png今年のアマチュア代表で出演した都立片倉高校吹奏楽部の上手さに仰天したが(私は彼らの方がプロかと思った)、昔から吹奏楽コンクールの強豪校は恐ろしくレベルが高い。吹奏楽はオーケストラと比べ個人技に頼るソロ要素が薄く、アンサンブルの精度を極めれば普通科の中高生でもプロとほぼ互角の技術水準まで迫れるということかも知れない。スウェアリンジェン作曲『インヴィクタ』という吹奏楽曲があって、技術的に平易で初心者でも乗れるわりにカッコよく映えるオイシイ名曲として、ブラスバンド経験者ならたぶん一度は演っただろう。

もちろんアマチュアの大半はプロの足元にも及ばないと思うが、コンクールの上位常連者となるといくらか話は違う。コンクールで審査する側は専門家なので、アマチュアと言えどプロの耳を唸らせるレベルを徹底的に追求する。一方、プロの音楽家はチケット代を払って聴きに来るファンを満足させることが仕事で、コンクールとは着地点が違う。トップクラスのアマはプロに評価されるため、プロはアマチュアの心をつかむため、それぞれ音楽に磨きをかけるのであって、極論を言えば弾き手と聴き手はプロ・アマ逆転しているのだ。『格付けチェック』のように一曲の一部分だけを切り取って比べたとき、そのどこにアマチュアらしさやプロらしさが滲み出るのか、考え出すと一筋縄ではいかない問題である。

フィギュアスケート界はさらに特殊で、私たちが名前を知っている花形スケーターはほとんどトップクラスの「アマチュア」だ。グランプリシリーズとか競技大会に出場する選手は(参加規定上)みなアマチュアで、フィギュアのプロとはアイスショーなどで活躍するスケーターである。競技人生を終えたアマチュア選手がプロに転向することも多いが、今の羽生結弦より技術力の高いプロのスケーターは、たぶん世界に一人もいないだろう。プロのレベルが低いということではもちろんなくて、滑る目的が違うのである。アマチュアはプロの目にしかわからない回転数のジャンプにしのぎを削り、プロはエンタテイメントの世界でギャラリーを魅了する。その意味では、吹奏楽と似ている。

大学は学位審査のシーズンが始まっている。今年度末に修士を修了する学生たちは、修士論文を仕上げつつプレゼンのリハーサルを何度もやって発表会に備える。研究の完成度や理解度はさておき、プレゼンは各研究室で相当に鍛えられているなあと感心することが多い。これが学界における「プロに審査されるアマチュア」が見せる本気度なのかなと思う。自分が学会前にここまでプレゼンを磨き上げていたかと振り返ると、反省も多い。

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年始の感染拡大について [科学・技術]

COVID-Tokyo_Jan2021.png一都三県に緊急事態宣言が再発令された。正月明け直後から首都圏を筆頭に新規陽性者が急増し、宣言発令にずっと及び腰だった政府も日和見できなくなった様子だ。東京都の新規陽性者(右図、都内のコロナ感染動向サイトより)は1月7日に2,500人近くまで跳ね上がり、その後再び落ち着いている。検査体制が縮小していた三が日のしわ寄せが上積みされたせいもあると思うが、7日移動平均(各日ごと過去一週間の平均値)でも顕著な増大の痕跡が見られるので、単に検査の遅れだけでは説明できない。

分科会の押谷教授が、急増の理由の一つとして陽性の事前確率が高い人が検査に加わった可能性を挙げておられた。前からうすうす思っていたのだが、自費検査の広がりが関係しているのではないか。木下グループなど民間業者が破格に安価なPCR検査サービスを開始し、出張や帰省前に陰性証明を得たい需要に応え話題になっている。自覚症状のない人が念のために受ける検査の大半は陰性と思うが、非医療系の検査機関は自治体への報告義務がないそうで、そこでの陽性率は公式統計には反映されない。しかし陽性結果が出た人は、医療機関に相談するよう促される。つまり医療施設外の自費検査は、事前確率ほぼ100%の陽性患者を掘り起こし行政検査ルーチンに送り込む、スカウト機能を果たしているわけだ。年末に帰省を控えて自費検査を受ける人が増えたとすれば、これが新規陽性者を上積みする一因になった可能性もあるだろうか。

consult-Tokyo_Jan2021.pngただ、増えていたのは無症状の陽性者ばかりではない。東京都のサイトから、都がコロナ対策で設置した発熱相談センターでの相談件数を見ることができる(右図)。当初は1,000~1,500件で変動していたが、クリスマス頃から急増し1月3日に3,000件を超えた。年越しの休み中にコロナ患者が多く発症し、週明けにどっと検査を受けて陽性者が急増した、と見て一応データの辻褄は合う。年末年始は繁華街に繰り出す人はむしろ減っていたはずだから、親族が集まり密になりがちな家の中が「夜の街」より危険な感染の温床になったのではと推察される。

国や自治体のコロナ政策は、GoTo一時停止や時短要請など、市中感染の抑制にターゲットが偏っている。ウイルスを持ち帰るタネを絶つ一定の効果はあると思うが、家庭内感染そのものを防ぐ役には立たないから、年末年始の感染増大を阻止できなかったのも不思議はない。松の内が明けてひとまず陽性者急増の山は過ぎたようだが、時短要請の実効性は依然よくわからない。飲み屋が軒並み8時で閉まってしまえば、友人や同僚どうし自宅に集まって宴会を始める人も出てくるかも知れない。むしろきちんと対策をしている飲食店で飲んでいる方が、人目もあっていくらか歯止めになるのではないか。

イギリスではロックダウンが再発動されたが、それでも感染拡大が止まらないようである。メディアはすぐ変異種の話になるが、どんな感染力の強いウイルスでも人の接触機会を完全に絶てば必ず減っていくはずだ。増え続けているということは、つまるところ人流が遮断されていないのである。店が軒並み閉められていても、誰かの家でこっそり3密会食していたら取り締まる術はない。イギリスに限らず、強力なロックダウンを実施した国で感染抑止が長続きしないのは、我慢できなくなった人から順に水面下に潜り、ホームパーティー等を介してウイルスが拡散しているということかも知れない(想像にすぎないが)。ハンマーを闇雲に振り下ろすだけではなくて、持続可能なコロナ対策に妙案はないものだろうか。

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世界を受け入れる [海外文化]

hito_jinrui_shinka.pngギャラップ社の調査によれば、神が人間を創造したと答えるアメリカ人は成人人口の40%に達し、33%は(創造説に同意しなくとも)人類進化に神の導きがあったと信じているそうである。生物進化を神様と切り離して考えている人は、米国民の22%に過ぎない。決して前近代の話ではなく、2019年の世論調査だ。2000年以前と比べれば、2割強でもだいぶ改善してはいる。

アメリカのキリスト教右派は、ローマ・カトリックなどと比べかなり原理主義的である(現在ヴァチカンは進化論を否定していない)。米国プロテスタントのルーツは英国から弾圧を逃れてきた清教徒(ピューリタン)で、禁欲指向の強いカルヴァン派に属する。政治保守と宗教保守は必ずしも同義ではないが、中絶や同性婚への拒否反応など共和党的価値観の根幹には、彼ら独特の宗教観抜きに語れない要素は少なくない。旧約聖書を厳格に信じるなら、ビッグバンも進化論も受け入れる余地はなくなる。一方、生物進化は認めるがその過程に超越的な知性が介在したとするインテリジェント・デザインなる思想的キャンペーンが存在し、いわば創造説と進化論の折衷案である。上記調査の33%分がこの手の信者であり、かつてジョージ・W・ブッシュ大統領もインテリジェント・デザインの支持を公言していた。聖書と『種の起源』の狭間で迷える魂のゆりかごとして機能しているようである。

前世紀のアメリカでは進化論を学校教育から排除しようとする運動がたびたび起こり、何度か裁判にもなった。現在では、原理主義的な教義を教育現場に押し込もうとする主張は、さすがに露骨な形では聞かれなくなった(と思う)。とはいえ、水面下でインテリジェント・デザインに代表されるソフトな半宗教的思想に姿を変え、進化論と対等な対立仮説を偽装し公的教育に忍び込ませようとする企ては健在である。個人の信条に留まる限り何を信仰しようと本人の自由だが、それを公的教育に持ち込むとなると話は違う。本来科学でないものに科学を装わせて子供に教え込むことは、世界を正視する胆力を鍛え真っ当な自己批判精神を育む機会を奪うことになるからだ。

バイデン次期大統領を選出する審議に抗議するトランプ支持者の一群が、連邦議会議事堂に乱入する事件が起きた。彼らはトランプ大統領が吹聴し続けた戯言を真に受け、不正に選挙が歪められたと「心から」信じている気配がある。己の意に沿わない世界を否定し、耳当たりの良いファンタジーに引きこもるだけなら、まだいい。しかし今回は、現実を妄想で上塗りする欲求が暴力的な実力行使にまで発展してしまった。民主主義の権化のような国の中枢でなぜこんなことが、という衝撃が世界に広がっているようだ。だが問題は、民主主義に対する挑戦ではなく、民主主義が否定された(票が盗まれた)という幻想をかくも多くの人が易々と信じていることにある。進化論を受け入れられないのと同じく、世界をありのまま直視するにはあまりにナイーブな人々だ。

私自身はいかなる神も信じていないが、信仰とは本来、人の心を温かく照らす灯火であるはずのものと思っている。だから宗教色をわざと薄めた宗教は、宗教そのものより却って危険だ。真面目な信仰の要素を失った宗教は、社会の中で増殖することだけが自己目的化するからである。インテリジェント・デザインがそうであり、トランプ信奉者の集団も宗教の形を取らない宗教と言える。トランプ大統領は支持基盤を強化拡大すべく、数多のフェイク・ニュースを御託宣のように放って教祖を演じてきたが、いまや信者が制御不能なレベルまでヒートアップしてしまったようだ。このタイミングでようやく「敗北宣言」を行ったのは、自ら煽った暴動が手に負えなくなって捨て身の沈静化を試みたのか、または群衆に責任を転嫁することで振り上げた拳を下ろす千載一遇の機会と見たのか。教祖はじきに政治の表舞台から去るかも知れないが、開けてしまったパンドラの箱はそう簡単にはもとに戻らない。

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積乱雲が湛える水 [科学・技術]

正月にテレビで『天気の子』を見ていたら、積乱雲ひとつに湖ぐらいの水が含まれててさ、というセリフが出てきた。だから雲の中を魚が泳いでいても不思議はない、とは面白い発想だなあと関心したが、そう言われると確かめたくなってくる(魚がいるかではなくて、水の量を)。ネットで同じ疑問に解説が付いていて、積乱雲中の水量はドラム缶数千万本分だそうだが、そう言われても実感がわかない。

平均的な雲が含む水の量は、1立方メートルあたり10分の1グラム(0.1g/m3)かせいぜいその数倍くらいだ。ただし雨雲になると水量は増え、積乱雲では一桁増しに達するという。積乱雲の雲水量を1g/m3とし、雲層の厚さを10kmとすると、雲中の水を丸ごとストンと雨にして落とすと地表面1m2あたり10kgの水が貯まり、水深1cmという計算になる。積乱雲の寿命は30分から1時間位だから、1時間雨量に換算して10から20mmほどだ(瞬間的な降雨強度ではもう少し高値になるかもしれない)。気象庁の基準では「やや強い雨」に相当し、地面からの跳ね返りで足が濡れ一面に水たまりができるくらいとのことで、孤立積乱雲(夕立のような驟雨)としてはまあそんなものだろう。『天気の子』でも、かなとこ雲を伴う孤立積乱雲の美しい立ち姿が何度も遠景に描かれていた。

しかし水深1cmでは、湖としては浅すぎる。平均水深10mくらいは欲しい。雲は横幅が大きいので、ギュッとかき集めて狭い場所に落とし込めば水深をかせぐことができる。立派な積乱雲は差し渡し10kmくらい(水平断面100km2ほど)になるので、これを0.1km2のエリアに詰め込めば深さ10mの水量になる。おおよそ300m四方くらいの大きさで、思ったより小振りな湖だ。どんな魚が住んでいるだろう?

uyuni_enko.png水深1cmでは浅すぎると書いたが、世界に一つだけぴったりの場所があることに気がついた。ボリビアのウユニ塩湖だ。雨のあと純白の塩湖に薄く水が張って、鏡のように空を映し出す。雲の水が天から降って、そっくりそのまま湖に化ける。わざわざ計算しなくても「積乱雲一つに湖ぐらいの水が含まれて」いる美しい証が、意外なところにあった。

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不要不急 [社会]

kadomatsu_gouka.png大晦日に東京都の新規陽性者が1,300人を超えたとかで、例年にない緊迫感のなかで年が明けた。昨年の新語・流行語大賞に3密が選ばれ、「今年の漢字」第一位も「密」だった。確かに、ネットやテレビで人が密集する映像を目にするだけで思わずゾッとする、妙な心理的条件反射が身に付いてしまっている。でももし私が選ぶなら、コロナに悩まされた2020年を端的に象徴する言葉は、不要不急だ。

不要不急の外出を控えて下さい、と何度言われたことか。欧米のロックダウンでは食料品や日用品の調達以外では外出を許されない場合もあるが、日本では不要不急の線引きは各人の判断に丸投げされる。そしてその線引きを間違えると、近所の自粛警察がお仕置きにやって来る。責任を取りたがらない政治と、その空隙を埋める社会の同調圧力。日本固有の曖昧で冷たい(しかしそれはそれで機能している)コロナ対策が、不要不急というどこか他人事の匂いがする一言に象徴されている。

私たちにとって、何が不要で何が不急なんだろう?友だちと外食したり旅に出たりコンサートに行くのは急を要しないかも知れないが、客を失う飲食や観光や音楽業界にとっては不要不急どころか死活問題だ。しばらく離れ離れだった遠方の家族や恋人に会いに行くのは、不要な外出なのか?高齢者介護施設でポツリと暮らす老いた親を訪ねるのは?不要不急という雑な言葉で白黒をはっきり分けられるほど、人の心も社会も単純にできてはいない。

もう一つコロナ関連で気になるワードを上げるなら、アクセルとブレーキか。感染防止か経済かという議論の中で、アクセルとブレーキを同時に踏むなという意見がある。でも、問題の所在はそこではない。経済派はアクセルを踏まないと車は進まないと言い、感染抑止派はブレーキを踏まないと事故になると言い、どちらも歩み寄ろうとしないことのほうが病的だ。車を運転する人は誰しも、状況を見ながら臨機応変にアクセルとブレーキを適切に踏み変え、安全に目的地に到着する。ひたすらアクセルを踏み続ける人も、頑なにブレーキをかけ続ける人もいない。コロナ対策だって同じことではないか。

不要不急なら車は乗らないで、と訴える事故防止キャンペーンは聞いたことがない。安全運転を心がけて下さい、と呼びかける方が普通だろう。安全運転に自信がない(または自覚がない)なら路上に出ないほうがいいが、感染防止のため私たち一人ひとりが何をすればよいのか、すでに多くのことがわかっている。全国の新規感染者が一時4千人を超えたとは言え、欧米に比べ未だに桁で少ない我が国の状況から察するに、日本は基本的な運転マナーを心得ている人が多いようである。長期戦に備えてメンタルを整えつつ感染を制御するには各人が何をすべきか、賢明で前向きな戦略を考え続けていこう。

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