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日本の科学は後退するのか?その2 [科学・技術]

kenkyu_woman_naayamu.png「科学技術指標2022」(資料)が発行され、静かに話題なっている。論文総数で日本は世界5位で微減、TOP10%論文数では世界12位と明確な下降線をたどっている。国際的な科学技術動向における日本のプレゼンスが落ちていると言われて久しいが、最新のデータで裏付けられた形になった。

日本の研究開発費や研究者数はこの20‐30年ほとんど伸びていないとはいえ、依然として世界3位ないし4位の水準にある。実数が増えないのはバブル崩壊以降経済が伸び悩んでいるので当然と言えば当然だが、曲がりなりにも世界上位クラスの資金力がありながらTOP10%論文数が10位圏外陥落ということは、データ上は日本の研究は相対的にコスパが下がり続けていることになる。なぜこんなことになったのか。

日本の問題に触れる前に、ずっと世界トップ水準を推移する米国の強さの秘訣を考えてみたい。アメリカの研究コミュニティは熾烈な競争社会だ。研究者はしょっちゅうプロポーザル(研究費の申請書)を書いているし、研究大学で教職を得るにはかなり高倍率の選考を勝ち抜かないといけない。NASAのような国立研究機関の正規ポストは限られていて、コントラクター雇用(ある種の契約社員)の人が多い。プレッシャーやストレスは少なくないはずだが、それでも絶えず世界中から優秀な人材を惹きつける。研究コミュニティ全体としては競争原理がプラスに作用して、質・量ともに世界第一線の成果を生み出し続けるのが米国のモデルである。

日本の大学では、基盤的研究経費が年々減り続け、入れ替わりに競争的資金への依存度が増していると言われる。それ自体は事実だが、これが日本の科学技術力を削ぐ元凶だとする議論は正しくない。日本よりずっと研究競争の厳しい米国が、(ランキングで見る限り)一貫して日本より質の高い論文を量産し続けていることから明らかだ。当たると限らないプロポーザルを書き続けるのは時間的にも精神的にもキツいが、少なくとも真剣に研究計画を組み立てるアカデミックな知的労働であることに変わりはない。外部資金を獲得するため研究計画の推敲に費やした時間は、決して無駄にはならない。

数年単位で刻まれる競争的資金が、長期的な視野を要する基礎研究に向かない、という意見がある。原則論はその通りである。基盤的経費が潤沢にあればそれに越したことはない。だがどこの国も台所事情は厳しく、平たく言えば無い袖は振れない。ほぼ唯一の例外が、中国ではないか。ずっとダントツであった米国を、近年急伸する中国がついに追いついた。中国の研究事情をよく知っているわけではないが、国家がトップダウンで科学技術予算や研究者ポストを配分する中央集権的システムに中国の急成長が支えられていることは間違いない。政治体制が全く違う日本で同じことができるとは思わない。中国型と米国型とのどちらのモデルが参考になるかといえば、自ずと答えは出ている。

状況を打開すべく日本政府は10兆円ファンドなる計画を進めていて、その運用益で少数精鋭の「国際卓越研究大学」に集中的に資金を投下することになっている。しかし世界における日本の研究プレゼンス向上という意味では、たぶん逆効果である。厳しい認定条件をクリアするために、我こそはという大学は必死で準備に追われる羽目になる。10兆円ファンドに限らず、政府は常に各種の評価資料やら申請書やら報告書やらで大学に大量の書類提出を要求する。研究費のプロポーザルと違い、組織防衛のための労働は研究者を疲弊させるだけで何の生産性もない。研究者にとっては、資金以上に研究について熟考する時間が貴重なのだ。しかし政府は研究や研究者を育てることよりも、大学や研究機関ごと組織単位の選択と集中をやりたがるのである。

組織管理がお好きなのは、たぶん日本の政治家や官僚が研究者をあまり信用していないせいではないか。管政権時代の学術会議問題がそれを象徴している。つまるところ、それが日本の科学技術力を蝕むいちばん根源的な問題かもしれない。

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72時間 [その他]

figure_question.png水際対策の緩和策として、現地出発72時間以内の条件を満たすのであれば日本出国前に取得した陰性証明も有効とすると厚労省が発表したそうである。笑ってしまった。

出国から帰国便の出発まで3日未満の短期海外旅行の場合、海外で陽性になって足止めをくらうリスクがなくなった。それはそれでいいのだが、海外からのウイルス流入を防ぐ本来の目的を自己否定したことになる。逆にもし出国前の検査で陽性になったら必然的に海外旅行は中止だから、単に日本人が国内で自己隔離に入る普通のプロセスと何も変わらない。どちらに転んでも、もはや「水際対策」でも何でもない。いったい何がやりたいんだろう?

河野太郎氏がツイッターで「これが有効ならば、そもそも帰国時の検査は不要ではないか」と呟いたそうだ。まったく同感である。

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8月のラピュタ [映画・漫画]

Laputa.jpg先週の金曜ロードショーで『天空の城ラピュタ』を放映していたそうだ。見損ねたが、原爆記念日と終戦記念日のはざまの『ラピュタ』は、今年は少し考えさせられるものがある。

宮崎駿作品で『ラピュタ』が一番好きと言う人は少なくないようである。初期の宮崎作品は『未来少年コナン』や『カリオストロの城』のようなバリバリの冒険活劇だったが、やがて『トトロ』や『宅急便』など子供目線で周囲の世界を丁寧に描く作品群を経て、『もののけ姫』『千と千尋』『ハウル』のような深遠で混沌とした幻想絵巻へと変遷していく。『ラピュタ』はその過渡期にあって、それらすべての要素をバランスよく味わえるお得な作品と言える。海賊ドーラというお茶目なヒールと、ドーラの気弱な息子たちの存在も人気の一因に違いない。

その意味で『ラピュタ』が極上のエンタメ作品であることは衆目の一致するところであるが、ラピュタが世界を破滅させ得る軍事要塞であることが明るみになった終盤、物語はシリアスな結末を迎える。ラピュタの兵器を目覚めさせたムスカは「ラピュタは滅びぬ・・・ラピュタの力こそ人類の夢だからだ」と言い放つ。しかし、シータにとって先祖のルーツであり、パズーにとっては憧れの目標だったはずのラピュタを、二人は捨て身で破壊する決断をする。

今年の8月6日、広島の原爆慰霊式で挨拶した湯崎広島県知事の言葉が深い洞察に満ちている。こんな一節がある。
ウクライナ侵略で世界が突然変わった訳ではありません。世界の長い歴史の中で,理不尽で大量の死を招く暴力は,悪により,しかし,時に正義の衣をかぶりながら,連綿と繰り返されてきました。現在の民主国家と言われる国でさえ完全に無縁とは言いにくいかもしれません。
 人間の合理性には限界があるという保守的な見方をすれば,この歴史の事実を直視し,これからもこの人間の性(さが)から逃れられないことを前提としなければなりません。
 しかしながら,力には力で対抗するしかない,という現実主義者は,なぜか核兵器について,肝心なところは,指導者は合理的な判断のもと「使わないだろう」というフィクションたる抑止論に依拠しています。本当は,核兵器が存在する限り,人類を滅亡させる力を使ってしまう指導者が出てきかねないという現実を直視すべきです。
持てる力を放棄するには、勇気がいる。騙されて自分だけ丸腰にされるのではという疑心暗鬼から、力を手放すことができない。だから銃規制反対論者や核抑止論者は、力を持ち続ける理由を「みんなそうだから」と正当化する。だが抑止論が保証する平和は、不安定で際どい均衡の上でしか成立しない。手元に置いた武器はつねにその持ち主を誘惑するからだ。つまりムスカの言う「人類の夢」だ。

『ラピュタ』が放映される日は「バルス祭り」なるイベントが恒例行事になったようである。物語の山場でシータとパズーが唱える滅びの呪文「バルス」を、視聴者がツイッターで唱和するらしい。物語ではムスカの野望は阻止され、世界は救われた。しかし現実世界には、まだ無数のラピュタが徘徊している。

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旧統一教会と政治 [政治・経済]

旧統一教会と一部の政治家をつなぐ依存関係が芋づる式に明らかになりつつある。集票の組織力と引き換えに権力に擦り寄る分かりやすい宗教団体のアプローチに、国会議員(や公安委員長まで)がかくも脇が甘いのには少し驚いた。国政に携わる政治家が、信者の高額献金で社会を騒がせた宗教団体をいとも容易く受け入れる深層に、何があるのか?利害が一致するから利用し合うというドライなプラグマティズム以上の親和性があるようである。

統一教会が日本に入り込みつつあった頃は安保闘争の時代で、反共思想が教会と政府を結び付けたきっかけの一つだったらしい。時代が変わった今は、伝統的家族観の共有が思想的な共鳴ポイントになっているようである。故安倍元総理は旧統一教会の関連団体UPFに寄せたスピーチの中で、家庭の価値を守る重要性に触れながら「偏った価値観を社会革命運動として展開する動きに警戒しましょう」と述べている。これが具体的に何を意味するのか定かでないが、LGBTに代表される家族形態の多様化を容認しない旧統一教会は、夜の虫が群がる常夜燈のように保守派の政治家を引き寄せる力がある。殺虫灯に捕まった虫が立てるバチバチという音が、いま永田町で盛んに聞かれる。

cult_family_shinpai.png家族重視を教義の中心に据える旧統一教会が、ときに信者の家庭を完膚なきまでに破壊し、その闇から安倍元総理の襲撃犯を産み落とした事実は皮肉な因果である。純粋な信者は家族の問題を解決したいばかりに教会に献金を続け、結果として新たな家族問題を作り悪化させる。家庭は社会構造の最小単位で、最も濃密な人間関係で構成される場だ。密度の濃い人間関係は、つねに諸刃の剣である。家族の思いやりに救われることがあれば、よそ者が介入できない密室の中で心が押しつぶされることもある。

伝統的家庭観を無邪気に賛美する宗教や政治は、家族が解消不可能な絆で結ばれているからこそその恩恵から排除される犠牲者が存在し得ることに想像が至らない。安倍元総理の襲撃犯が生身の人間に銃口を向けたことに全く共感の余地はないが、彼が味わった地獄と保守派政治家の賛美する家族観が表裏一体でつながっていると彼が嗅ぎ取っていたのであれば、その嗅覚自体は必ずしも間違ってはいない。

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完・ちょっとした不測の事態 [その他]

medical_koutai_kensa2_negative.png晴れて帰国することができた。PCR陽性が出て顔から血の気が引いた日(実際一時的に貧血を起こした)の二日後と三日後にはいずれも抗原キットで陰性、四日目に満を持して改めてNAATを受けやはり陰性だった。いったい何だったんだろう。

国立感染研によれば(詳細)、無症状感染者は8日を超えるとウイルスの排出はなくなり、これが無症状陽性の場合の隔離期間が7日とされた根拠になっている。ただしPCRの結果自体は、検査日から8日を過ぎる時点でも依然として8割以上が陽性判定である。自己隔離中にこの情報を見たときはゾッとしたのだが、結果的には陽性が陰性に戻るまでほんの数日も要しなかった自分はもともと体内のウイルス量が検出限界ぎりぎりだったのか(それとも偽陽性だったのか)。無症状の場合、濃厚接触者とか帰国前とか理由がない限り検査の機会がないので、統計には多分に選択バイアスがあり得る。無症状感染者がクラスターの起点となる事例もあるようで、自覚症状がなくても相当量のウイルスを保持している場合はあるようだが、その一方でほとんど感染力もないプチ感染者が相当数社会に浸透している可能性もある。気付かないうちにコロナに薄くかかっていつの間にか治っている人はたくさんいるかも知れない。

第7波を迎えた日本は、人口当たり新規感染者数で欧米の主要諸国を軒並み抜いている。これは第6波以前とは大きく異なる特徴である。水際対策を緩和した欧米諸国より、未だに陰性証明がないと誰も入国できない日本の感染状況がむしろ悪化した原因は何か?ワクチンの感染抑止力が各種オミクロンに対して限界があるのだとすれば、オミクロンに対する集団免疫は感染爆発でしか達成できないということかもしれない(私がアメリカで会った海外の同僚は感染経験者が大勢いた)。そうだとすれば、現在の第7波は遅ればせながら日本にやって来た集団免疫獲得の機会ということになる。感染カーブはぼちぼちピークを越えそうな様相を示しているので、9月くらいにはだいぶ状況が落ち着いていることを期待したい。

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続・ちょっとした不測の事態 [その他]

jitaku_taiki_man.png海外滞在中にコロナ陽性になってしばらく帰れなくなった話は、今や珍しくない。現時点ではある程度の水際対策は必要だろうが、問題はその「ある程度」が適切に設定されているかどうか(およびそれが適切かどうかを柔軟に判断する国のメカニズムが機能しているか)ではないか。

日本政府は入国に際し陰性証明をとる検査法と検体の種類をかなり限定している。抗原定性検査(簡易キット)は認められていない。国内で無症状者の感染を判定するための推奨基準を援用しているようである。ただ、国内で陽性が判明し自己隔離するのと、国外で感染し帰国を拒否されるのでは、いろいろ訳が違う。

NAAT(PCR検査など)は高感度すぎて感染リスク消滅後も陽性が出続けることがあり、CDCのサイトにNAATの欠点としてこんな指摘がある。
A positive NAAT diagnostic test should not be repeated within 90 days, because people may continue to have detectable RNA after risk of transmission has passed
短期間にNAATを繰り返し使って陽性診断するなとはっきり書いてある。しかし現在の日本政府の水際対策では、帰国前に陽性判定が出てしまった人はこの「やるな」をやらないと帰れない(NAATのほかに抗原定「量」検査も認められているが、これが受けられる検査施設は圧倒的に少ない)。

結果として、症状が回復しているのに長期にわたり国外に足止めを食らうケースが続出しているようだ。回復後も陰性にならない場合は領事レターという特例措置が存在することを先日知ったが、NAATによるスクリーニングが入国条件に適切かというそもそも論は置き去りにされている感がある。NAATは検査費が高価で、1‐2日結果が待てるならまだしも、慌ただしい出張の中では短時間で結果が出るさらに高価な検査法(アメリカの場合$100は下らない)に頼らざるを得ない。陰性になるまでNAATを繰り返し受けさせられるのは、科学的にもコスト的にも非合理だ。抗原定性検査であれば、安価で繰り返し検査しやすい。もちろん感度は劣るが、明らかに感染している人は簡易キットでも陽性になるので、一定数の見逃しがあってもリスク低減には充分有効なはずだ。一定数の見逃しすら許容しない原理主義的なゼロリスク水際対策は、オミクロン時代にはそもそも無意味である。

困難に直面している自国民を国外に締め出すというのは、国家として異常である。もちろん感染症の特性を考えると「ある程度は」やむを得ないが、ゾンビを締め出すために逃げ遅れた家族もろとも鼻先でピシャリとドアを閉めるような冷酷な対策をいつまで続けるのだろうか。欧州も米国も、ワクチン接種済みを前提として入国前検査を既に廃止した。絶えず状況の変化を見ながら制度の異常性と水際対策の落としどころを探っていかなければならないはずが、そのあたりの知恵と意欲が日本政府には欠落してるように見える。

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