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日本人の幸福度 [社会]

2020年9月に公表されたユニセフの報告書『レポートカード16-子どもたちに影響する世界:先進国の子どもの幸福度を形作るものは何か(原題:Worlds of Influence: Understanding what shapes child well-being in rich countries)』が面白い(ユニセフのサイト)。身体的健康・精神的幸福度・スキルという3つの観点から国ごとに子供の幸福度を調査した報告書で、日本は身体的健康で堂々の1位を獲得している(とりわけ肥満度が他国より群を抜いて低い)。対照的に、精神的幸福度では38か国中37位という顕著に低い結果が出た。「スキル」は数学・読解力という学力面に加え、すぐに友達ができるかといった社会的スキルも含めた指標である。日本は学力で5位、社会的スキルでは下から2番目とこちらも大きく割れた。

pose_makasenasai_boy.png精神的幸福度は「生活満足度が高い15歳の割合」と「15~19歳の自殺率」の2項目が基準で、日本の場合とくに前者のスコアが低い。健康値がトップなのに心理的な充足度が最低値に近い理由として、日本の若者は自己肯定感が低いと分析されることが多いようである。いろいろな要因が背景にあると思うが、自己主張が歓迎されない日本社会で自分をあけすけに肯定する「ダサさ」が敬遠されがちという側面もあるかもしれない。仮に幸福度の肌感覚が同じくらいでも、大いに盛って「幸福です」と言い切るのか、遠慮がちに「そうでもないです」と答えるか、それ自体が文化的な美学を反映するから単純に同じ設問の回答を突き合わせ比較はできない。

自己肯定感に満ち溢れていればそれで良いのか、という疑問もある。自己肯定感は高く幸せそうだが現状満足型でなかなか伸びない子とか、逆にいつも自己否定的で辛そうだがそれがモチベーションになってがむしゃらに結果を出す子とか、職業柄いろいろなタイプの若者を目にする。ひたすら幸福に生きたいのであれば無限に自己肯定的であるのが一番と思うが、腹をくくって一仕事を成し遂げようと思うとある程度自虐的な性格要素がないと本当の意味で成長しない。たぶんそのバランスを上手に工夫できる人が成功するのであって、単に精神的幸福度が高ければ理想的というわけでもない。人生哲学は下手にバラ色に塗り固めるより、あれこれ悩みながらまだら模様に仕上げる方が、長い目で見れば正解なんじゃないかと思う。

眼鏡店とラーメン屋 [社会]

megane_case.png私は長年のコンタクトレンズ愛用者だったが、老眼が看過できなくなった4年ほど前から眼鏡に切り替えた。もともと近眼に加え乱視もひどいので、近視矯正+乱視矯正+遠近両用をすべてコンタクトに託すのが難しくなったのである。

ときどき眼鏡の購入店に足を運んで調整をお願いする。そのたびに思うのだが、眼鏡店ってどうやって経営が成立しているんだろう。眼鏡は安い買い物ではないが、使い捨てコンタクトレンズと違って一度買ったら何年も買い換えない。調整やクリーニング程度のアフターケアは無料なので、車のディーラーのように車検や定期点検で稼ぐわけでもない。検眼の設備など初期投資はバカにならなさそうだし、どの店も数人の店員が常駐しているので人件費もそこそこかかっているはずだ。めったに買わないアイテムばかりを売る店が、どうやって利益を出しているのか?

ざっと調べてみると、眼鏡の原価率は30%か40%あたりがふつうのようだ。一般の小売店の原価率が50%~75%ということなので、それに比べると眼鏡販売の利益率は高く、30~40%という数値はむしろ飲食店の原価率に近い。仮に眼鏡店が3万円のメガネを一日2本売るとすれば、原価率30%として粗利益は4万2千円となる。一日4万円ちょっとで大丈夫か、と素人目に心配になる。しかし計算上は、ラーメン屋が一食600円のラーメンを一日100食売るのと同じくらいの粗利益である。濡れ手に粟には遠いが、なんとかなりそうな気がしてきた。諸経費のかかり方が違うので営業利益は単純に比較できないが、眼鏡屋のビジネスは小売店よりむしろラーメン屋に近いということか。

大統領のスピーチ [社会]

ウクライナのゼレンスキー大統領が日本の国会でオンライン演説を行いたいと打診があったそうだ。大統領のスピーチをめぐって、二つ興味をそそられる事案があった。

Ukraine.png一つは、日本政府関係者側が「(オンラインで演説を中継する)前例と設備がない」と戸惑っているという報道だ。日本の国会議員はいまだに石器時代を生きている様子である。コロナ禍の過去2年間、至る所でオンライン会議のノウハウ確立と設備導入が進んだが、世界から取り残された最後の秘境が国会議事堂のようだ。本会議場にオンライン会議設備を設置できないこと自体が驚きではあるが、それなら都内の大型会議施設を借りてもいいし、それが無理なら議員が各々PCに向かって演説を聞く手もある。戦火に晒される街から悲痛な声を聞いてほしいというときに、先進国の立法府が発した第一声が「前例も設備もない」だったなど、ちょっとあり得ない話である。受け入れる方向で動いているそうなので結果論としては良いのだが、我が国の国会議員はいい加減マンモスを追う生活をやめて21世紀の暮らし方を覚えてはいかがか。

もう一つは、ゼリンスキー大統領が米国議会で行ったオンラインスピーチの内容だ。9月11日同時多発テロと真珠湾攻撃に言及したことが、日本で静かに話題を呼んでいる。日本人にとっては微妙に居心地の悪い話題だが、英国向けのゼリンスキー演説ではチャーチルの議会演説を引用したそうだから、国ごとに愛国心を煽る主題をとっかえひっかえ選んでいる以上の意味はない。彼が日本の議会でスピーチするときは、おそらく広島と長崎を引き合いに出すのではないか。仮にそうなら、今度はアメリカ人にとっていくらか耳障りに響くかもしれない。原爆投下は必要だったと考える米国世論は今でも根強いのである(そうでない人たちももちろんいる)。

戦争は、どちらの立場から見るかによって正義が反転する。ロシアにはプーチン大統領の根強い支持者がいて、政権が垂れ流す戯言を信じている。正しい情報へのアクセスが限られているせいだけではなく、そう「信じていたい」のである。他方で、勇気を奮って戦争反対の声を上げるロシア人もいる。太平洋戦争中の日本もきっとそうだったし、同時多発テロ後の中東だって同じだったはずだ。戦争は国と国との争いという形をとるが、戦争に加担する人と苦しむ人の間を隔てる境界線は必ずしも国境とは一致しない。

正義感や愛国心は、つねに諸刃の剣である。ゼレンスキー大統領の各国向け演説を全部つなげて聞いてみると、ご本人の意図を超えて「私たち」と「あいつら」で簡単に分けられない世界の多面性が浮かび上がってくるのではないか。

みんな怪しい [社会]

job_tantei_foreign.pngミステリー小説やドラマの定石の一つは、怪しく見えなかった普通の人物が実は犯人だった、というパターンである。驚愕の真相をいかに矛盾なく物語に忍ばせるか、伏線や隠れた犯行動機を緻密に仕掛けるのがミステリー作家の腕の見せ所であり、それが良く出来ていれば読者や視聴者はまんまと騙されても結末で胸のすく思いがする。しかし、熟練の読者はちょっとやそっとでは騙せないから、作者も裏をかくのは容易ではない。そこで、時として定石そのものがひっくり返される。

アガサ・クリスティは時々大胆な賭けをした。『オリエント急行』のように容疑者全員が犯人だったこともあれば、『アクロイド殺し』のように語り手が真犯人という禁じ手すれすれのトリックを使ったこともある。あるいは、はじめにトリックを視聴者に明かしてしまう『刑事コロンボ』のスタイルがある。コロンボ方式のメリットは、ネタバレの心配がない(初めからバラしている)ので豪華ゲスト俳優を犯人役として毎回堂々と起用できることだ。『コロンボ』シリーズがあれほど長期間続いた背景には、真相解明より刑事と犯人の駆け引きで引っ張る天才的なアイディアが功を奏していたことは疑いない。もっとも、ドストエフスキーは『罪と罰』で既にその手法を存分に活用していた。

日テレのドラマ『真犯人フラグ』が完結した。同じ制作陣による前作『あなたの番です』と同様、見るからに怪しい登場人物がぞろぞろ跋扈し、その中には実際に相当ヤバい輩もいれば、単に怪しく見えるだけの無害な人もいる。小ネタを小出しにしながら回を重ね、全てを操るラスボスは誰かという謎解きで最終回まで引っ張る仕組みだ。第2クール後半は毎回一人ずつ善い人キャラが崩壊していったり元に戻ったり、カオスがいっそう深まる。もともと連続ドラマは面倒であまり見ないのだが、『真犯人フラグ』は一度うっかり見てしまったが最後、途中で止められなくなってしまった。

露頭からほんの少し顔を出す石塊を手がかりに恐竜の化石を掘り当てるように、わずかな手がかりから埋もれた真相を推理するのがミステリーの伝統であった。対照的に、わざと過剰な手がかりを派手に散りばめて真相を煙に巻くのが『あな番』や『真犯人フラグ』の手法である。真偽不明の情報がネットを飛び交う混沌の中でなにが本質かを見極めなければいけない時代、雑音だらけで情報過多なミステリーのほうが逆にリアリティがあるということか。

蓋を空けてみると真犯人予想の下馬評を裏切る結末で、最終回のあとファンはしばしネットで騒然としていたようだ。消化不良の印象を拭えない視聴者も少なくなかったようだが、つまるところオチはさほど重要ではない。『真犯人フラグ』には柄本時生さん演じるユーチューバーが狂言回しのように登場したが、彼のいかがわしさと無邪気さこそ、このドラマがえぐる情報化社会の功罪を最も端的に象徴しているのである。

ファミレス(と人類)の未来 [社会]

robot_house.png近所のファミレスに行ったところ、配膳ロボットが店内を徘徊していた。タブレット端末で注文すると、料理を客のテーブルまで自動的に運んでくれる優れ者である。デフォルト状態ではモニターに猫顔のイラストが表示され、子供が喜ぶ仕様になっている(私も喜んだが)。通路の先を人が塞いでいると「道を開けて下さい」と喋りだすが、障害物が人でない場合(椅子が通路にはみ出しているケースなど)は「通れません」と泣き言を繰り返したまま立ち往生する。すると店員さんが救出に飛んでくるので、ロボットがフロア店員の代わりになっているのか逆に手間が増えているのか、あまり定かでない。ちなみに私は汁物を頼んだせいか、人間の店員がふつうに運んできた。

配膳ロボットは、北京冬季オリンピックの選手村でも話題になった。感染対策で導入が加速した面はあるだろうが、コロナ前からファミレスの店員数は減少の一途にあったから、もともと人件費節減のために開発されたシステムと思われる。近未来のファミレスは、本当に店舗から店員が消えるかもしれない。入店したら空いている席に勝手に座り、端末で注文したら配膳ロボットが食事を運んできて、食べ終わったらセルフレジで支払いをして帰る。厨房では調理ロボットが腕を振るい、無銭飲食を試みる不届き者を警備ドローンが猛追する。トラブルが発生し客が「店長を出せ!」と凄めば、店長ロボットがおずおずと現れ土下座する。

チェコの作家カレル・チャペックが戯曲「R.U.R.」を世に問うた1920年から、ちょうど100年あまりが経った。ロボットという言葉が初めて使われたことで知られるSFの古典である。チャペックの描いた世界はロボットが人間を駆逐するディストピアだが、2022年のロボットはファミレスの通路でオロオロしているありさまだから、人類征服にはまだ遠い。それより先にクレムリンに棲む不穏な男のせいで人類が自滅してしまわないかのほうが心配だ。

殿下のコピペ問題 [社会]

copy_and_paste.png悠仁親王の作文にコピペ疑惑が持ち上がり、静かに話題になっている。子どもノンフィクション文学賞に佳作入選した作品ということだが、一部で既存の文献と表現が酷似する箇所が見つかった。問題の内容を元ネタと比較すると偶然の一致というレベルではないので、盗用は明らかである。この疑惑に宮内庁は素早く反応し、参考文献の記載漏れという弁明で乗り切りたい様子だ。しかし文献引用という認識があったのであれば、本文中でも地の文と区別できるよう転載するのが筋である(文学賞の「応募の注意」にもそう書いてある)。実際には文脈に溶け込む形で微妙に言い回しが変わっているので、むしろ剽窃の確信犯と自分で認めてしまっているに近い。

ご本人を批判する意図は全くない。まだ中学生なのだから、こういうのはやっちゃダメよと周りの大人が適切に指導すればよい。しかし「周りの大人」が実際にやっていることはその真逆だ。宮内庁の対応は、あなたの粗相は私たちが尻拭いさせて頂きます、という悠仁さまへのメッセージにほかならない。本来なら、本件は秋篠宮両殿下が厳しくご指導されました、悠仁親王殿下も反省なさっています、となるのが正しい。

文学賞を主催する北九州市立文学館も歯切れが悪い。剽窃は単なるうっかりミスではないし、そもそも「応募の注意」に違反しているのだから、受賞を取り消して然るべきである。しかし主催側は撤回は考えていないと表明している。将来の皇位継承者からいったん与えた賞を取り上げるのに及び腰なのはわからないでもないが、そのような立場の彼だからこそ、うやむやにしないほうが良いのではないか。コピペで賞を取った過去を大人になってから掘り起こされて迷惑するのは、悠仁さまご本人である。

彼は筑附の入試関連でもいろいろ取り沙汰されており、注目度が高いぶん苦労も多かろう。その心労をむやみに増やさないためにも、周りの大人がもっとちゃんとしてあげないといけないんじゃないか。

日本に来られない留学生の話 [社会]

syukkoku_nyukoku_japan.pngコロナ新規感染者数は相変わらず多いが、増加率は頭打ちになった。東京都では7日移動平均の増加比が100%を切り(都のモニタリングサイト)、下り坂に入りつつある。揺り戻しがないという保証はないが、感染拡大はひとまず山場を超えた気配はある。そんな中、ビジネス目的の入国者や留学生などを対象に水際対策の緩和を検討すると岸田首相が発表した。ようやくか、と少し安堵している。

大学で教える立場にいる人間としては、留学生への配慮が一番気になる。私のところにも、昨年4月に入学したもののいっこうに来日できない博士後期課程の留学生がいる。研究能力もモチベーションも高く、毎週Zoomで進捗を聞くたびにどんどん先に進んでいる。大学の日本語クラスをネットで受講していて、会話のはざまに時々ぶっこんでくる日本語が日々少しずつ上達を見せている。明るく前向きな性格でいつも元気いっぱいだが、日本政府がいったん再開した留学生の入国手続きをオミクロン対策で再停止した直後はさすがにがっかりした様子で、気丈に振る舞う彼女の姿に心が痛んだ。

彼女が住む台湾は日本よりもずっと感染状況は落ち着いているし、本人はワクチンも二回済ませている。日本にやって来る留学生出身国の上位3カ国は中国・ベトナム・ネパールで、いずれの国も直近の人口あたり新規感染者数は日本より少ない(第6波以降は日本と韓国がダントツで東アジアのワーストに躍り出た)。水際対策という点で、日本国内より感染リスクが低い国から来る人たちを一律に入国拒否する合理的な理由はない。日本で学びたいという隣国の若者の熱意を身近に感じる一人として、早く留学生の入国プロセスを再開してほしいと率直に思う。

共通テストのカンニング事案 [社会]

大学入学共通テストでちょっと手の混んだカンニング事案が明るみになった。家庭教師マッチングサービスを利用する「高2女子」から、サービスに登録している複数の大学生あてにスカイプ経由で問題用紙の画像が届いた。家庭教師としての実力を知りたいという名目で、真に受けて解答に応じた大学生もいたが、後に不審に思い通報し事件が発覚した。警察に出頭した「高2女子」の正体は、滑り止めで入った大学に通いながら仮面浪人していた19歳だったということである。12月に偽名でマッチング業者に登録していることから、周到に準備された計画だったものと思われる。

animal_chara_smartphone_azarashi.pngそんな大胆なカンニングが試験会場で実行可能なのか、と驚いた。本人によれば、スマホを袖に隠して撮影したということである。画を撮るだけなら、レンズだけ出るよう袖に忍ばせれば、確かに隠し通せるかもしれない。だが、それをスカイプのチャットで送信したり、送られてきた解答を確認するには、スマホの画面を直接確認しないといけない。慣れた子なら大した操作ではないとは思うが、そもそも共通テスト中はスマホは電源を切ってカバンにしまいなさいと開始前に必ず釘を刺される。試験中ポケットに入っているだけで違反を取られかねないし、ましてスマホを手にしている現場が見つかれば(仮に操作中でなくても)言い逃れはできない。どう考えてもリスクは高いし、別案件だが実際にスマホを太腿に挟んで見つかり失格処分になった受験生もいたそうである。

自分が入試監督者をやるときは、適当な頻度で会場を巡回したり、しばらく会場の後方に立って見渡したりする。監督者は最低2人はつくので、前と後ろに展開すれば死角は減る。カンニングを企む受験生がいたとして、背後のどこから見られているか確認しようのない状況では、こっそりスマホを操作するなどかなり敷居が高いのではないか。問題の受験生がいた会場の監督者は、彼女の不審な動きに感づいていただろうか?間違っても無実の受験生を誤認逮捕するわけにはいかないので、共通テスト会場で不正を認定するには相応の段取りがある。そもそも不正行為の摘発が監督の目的ではないので、怪しいと思ったら近くを重点的に巡回するなど、未然防止に務めることになっているはずだ。もし監督者が周りをウロウロし始めたら、おちおちスマホ操作などできるはずもない。

ある意味で、入試監督は警察のネズミ捕りに似ている。たまに警官を動員して速度違反を取り締まったところで、交通事故がたいして減るわけではない。むしろ、いつ切符を切られるかわからないのでむやみに飛ばすのは止めておこう、というドライバーに対する心理的抑止効果に意味がある。飛ばしてちょっとでも先に行くささやかな満足感は、反則金を払い免許証に点数が積まれるリスクに比べまるで割に合わない。試験監督も、受験生全員の一挙手一投足を漏れなく監視できるわけがない。ただ、不正をやらかすとバレる「かもしれない」というリスク、バレたときに払う代償の大きさを考えたとき、常識的な思考力があればカンニングの選択肢は取らない。もちろん、大多数の受験生はカンニングなど頭をよぎりもしない。

スマホの進化とカンニング摘発がイタチごっこで、入試のあり方が限界に来ているみたいに言う人もいる。が、別に入試システムの問題ではない。リスク管理の判断力が著しく欠落した一握りの受験生の問題である。

目の前のリスクと将来のリスク [社会]

昨年夏の第5波のさなかに書いたブログの末尾で、こんなことを書いた。
ワクチンが怖いという人は、沈没する船から救命ボートに飛び移るとき、足が滑ったらどうしようと尻込みするのに似ている。ボートの脇で海に落ちても、たぶんすぐに誰かが助けてくれる。しかし飛び移る勇気が出ないまま沈みゆく船と運命を共にするなら、その限りではない。
目の前の小さなリスクと将来の大きなリスクを比べたとき、どちらを切実に感じるか、という話である。

ハナ・ホルカというチェコのフォークシンガーがコロナで亡くなった。ワクチンは打っていなかったそうである(BBC記事)。夫と息子は接種を完了していたが、その二人がクリスマスの時期にそろってブレイクスルー感染した。本来なら一週間ほど二人と接触を断つべきであったのに、彼女は敢えて一緒に過ごし続けた。コロナに罹った家族に寄り添いたい気持ちもあったかもしれないが、実は自ら進んで感染を望む確信犯であった。チェコでは、ワクチンを打つか直近の感染歴がないと映画館にもバーにもカフェにも入れない。彼女は、ワクチン接種よりも感染する選択肢を選んだのである。果たして彼女はコロナに感染した。快方に向い今後は劇場にもコンサートにも行ける、とSNSに書いた二日後、自宅の寝室で世を去った。まだ57歳だった。

chinbotsusen.png一連の顛末を語っているのは、彼女の息子だ。母はマイクロチップ説みたいな陰謀論の信者ではなかった、ただワクチンを打つよりコロナに罹るほうがまだマシと考えていた、と彼は言う。ワクチンに否定的な意見の中には、他人から押し付けられることへの反感と未知のものを体に入れる恐怖心という二種類のパターンがあって、ハナ・ホルカさんはどちらかというと後者のケースだったように思われる。救命ボートに飛び移るリスクを過大評価し、沈みゆく船と運命をともにするリスクを過小評価した。ホルカさんの息子は母を説得しようにも感情的な言い争いになるだけでどうにもならなかったそうだ。それでもなお救える道はなかったのか、と息子は自問自答を続けているかもしれない。彼の心中を思うと胸が詰まる。

救済策? [社会]

school_test_seifuku_girl.png文科省が、コロナ感染や濃厚接触で大学入学共通テストの受験機会を逃した受験生に「救済策」を講じるよう各大学に要請したそうである。追試を含め共通テストを受けられなかった受験生には大学ごとの個別試験だけで対応しなさいとか、個別試験も受けられなかった場合は別途選考方法を考えてね、という内容だ。文科省の能天気ぶりが炸裂している。この期に及んで無茶ブリを突きつけられた大学は、さぞかし頭を抱えていることだろう。おそらく、対応不可能としてスルーする大学が多いのではなかろうか。

この時期にコロナにやられた受験生は、もちろん気の毒である。本人には何の罪もない。とはいえ、コロナかどうか以前の問題として受験時期に体調を崩す人は一定数いる。インフルエンザは多い年にはシーズン通算で国内1000万人以上が罹り、人数ではオミクロンの比ではない。過去にインフルエンザで寝込み共通テスト(センター試験)に(追試も含め)行けなかった受験生を、文科省肝いりで救済したことがあったか?コロナだけ特別扱いする理由はたぶん、受験生の利益に配慮云々より、無理を押して試験会場にやって来る受験生を阻止したいのが本音ではないか。入試クラスターでも起これば、主催側の対応に批判が向きかねない。文科省が本当に「救済」したいのは誰か?

そしてもちろん、公平性の問題がある。共通テストを一次選抜(足切り)として使う大学にとって、学力と無関係の理由で特定の受験生にシード権を与える正当な理由はない。公平性を担保するには、一人でも該当者がいれば全員の共通テスト結果を採用しない(足切りもしない)という極端な選択肢しかない。それでは、時間をかけ共通テスト対策に尽力した受験生の努力を愚弄するに等しい。それに大学にとっては、5科目をまんべんなくクリアする知的バランスを評価したいとか、共通テストを採用する何らかの大義がある。思いつきの「救済策」で簡単にひっくり返すような話ではそもそもない。

問題作成や試験監督など現場を担う人間は、入試の公平性・客観性は最優先事項でとにかく神経を使う。そのあたりの厳しさを、文科省はまったく理解していないようである。共通テストと言えば、記述式解答とか英語の外部試験活用とか、誰かの浅知恵で改革が迷走し頓挫した前科がある。入試制度に関わることは、文科省はしばらく黙っていてはどうか。