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1%未満 [社会]

日本もようやくマスクの着脱は個人の判断ということになった。とはいえ、そもそも我が国でマスク着用が法的に義務化されたことは一度もないから、もともとお願いベースだったものが取り下げられたに過ぎない。お願いを解除されたところで、どう対応すれば正解なのか今一つ釈然としない。で、大方の予想通り、市中のマスク率は大して以前と変わっていない。

人前でマスクをしないことに何となく罪悪感を感じるようになってしまったご時世だが、当たり前すぎて見過ごされがちな事実が一つある。周囲の誰も感染していなければ、マスクはしてもしなくても全く同じということだ。現時点で一日の新規感染者数は1万人を切っている。コロナに感染した人が治るまでに1週間ほどかかるとざっくり仮定すると、およそ7万人弱の感染者が国内にいることになる。単純に人口1億2500万で割ると、0.05%くらいだ。実態として検査の数値より数倍の感染者が存在するとしても、1%に遠く及ばない。

rain_kasa_black_close.pngもし日常的に数百人とか千人規模の不特定多数の人と長時間喋ったり会食したりする人がいるなら、その中に一人以上コロナ罹患中の人がいるかもしれないから、感染対策は気にした方がいい。そうでなければ、今では身近に感染中の人を見つけ出すほうがよほど難しい。花粉症の人と素顔を晒したくない人は別として、現在の感染状況でマスクを常時着用するのは、降水確率1%未満の快晴の日に頑なに雨傘を差しながら歩くメンタルと変わらない。

西洋の傘はもともと日傘が発祥で、雨傘として用いられるようになったのは18世紀のイギリスだそうである(以前書いた)。女性のアイテムであった日傘から転用された当初、男性が差す雨傘は奇異の視線を浴びたと聞く。だがやがて、単に雨を凌ぐ道具を越え英国紳士の嗜みの一つとして定着した。日本人にとってのマスクは、今やジェントルマンがステッキのように愛用する蝙蝠傘に匹敵するセンターポジションを獲得したようである。

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X世代の悲哀 [社会]

Z世代という言葉をときどき耳にする。Zがあるからには、もちろんX世代とY世代もいる。日本ではあまり聞かないが、もともと欧米圏を中心に使われてきた用語だ。X世代は戦後のベビーブーマーに続く1965年-80年頃生まれの層で、日本で言うところの団塊ジュニアとその前後の世代だ。Xより若いY世代はネットネイティブ、さらに若い2000年代生まれのZ世代はスマホネイティブとされる。IT技術の進化がコミュニケーションのスピード感や距離感を劇的に変えたことを考えれば、国境を越えて同じように世代を分類する意味はある。とはいえ、日本には日本固有の社会状況がある。

bubble_houkai.pngX世代が多感な十代ないし二十代を迎える頃、バブルが崩壊した。これを境に、今日より明日のほうがきっと良い世界が待っているという高度成長期以来の期待感が日本社会から完全に消失した。X世代のど真ん中にいる私は、当時大学生だった。学園祭の学部企画を担当していて、前年までは快諾してくれたスポンサー企業から軒並み断られ「引継ぎと話が違う」と焦ったことを覚えている。もし大学院に進学していなければ、就職氷河期の最先端で吹雪に立ち向かっていただろう。大学院を終えて博士号を取ったは良いが、結局ポスドク問題という別の氷河期に直面することになった。

自分より5から10歳位くらい上の年齢の同業者と話をしていると、彼らの前向きな明るさと静かな自信に感銘を受けることがある。バブルに湧いていたころの日本を社会人として経験し、また大学院重点化が浸透し研究職が極端な買い手市場へと傾く前に勝ち逃げした世代である。もちろん、生まれた年代だけで人を語るのはフェアではない。ただ、日々肌で感じる時代の勢いや空気のにおいは、長い時間をかけて私たちのメンタリティをじわじわと醸成する。成功体験に乏しい氷河期世代にとって、いつか自分が社会にとって価値ある存在になれると信じるためには、人一倍心の強さを奮い立たせないといけない。

翻って自分よりずっと年下の優秀な若者と接すると、バブル世代のようなギラギラした昭和臭とは無縁だが、氷河期世代が背負いがちな悲壮感もない。さとり世代という言葉があるが、物心ついたころには「失われた10年/20年」の只中にいたから、初めから身の丈に合った人生目標に堅実に着地する処世術を身に着けているのかもしれない。あるいは、ライバルがひしめいていた団塊ジュニアの氷河期先頭集団と違って、勝ち残りのプレッシャーから自由なせいかもしれない。若い世代なりの苦悩はいろいろあるに違いないが、傍から見ていると彼らの気負いのないしなやかさに爽やかな感動を覚える。

日本でX世代とかY世代といった語が定着しなかったのは、それなりの理由があったのだと思う。日本の現役世代は、XYZ以前にバブル世代・氷河期世代・ポストバブル世代を隔てる断絶が深すぎるのではないか。

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最初の一滴 [社会]

sports_ouen_soccer.pngドイツに勝って、コスタリカに負けた。ワールドカップのグループステージが突入した波乱の展開はさておき、現地で応援する日本サポーターの映像を興味深く見守っている。几帳面にゴミを片付けて回る様子が話題を呼んでいるが、書きたいのはそのことではなく、ノーマスクで楽しそうに絶叫する彼らの姿である。誰もマスクをしない文化圏に飛び込めば、母国ではマスクを手放せない日本人も即座にそこに乗っかることができる。これを確認できて少しホッとした。

コロナ禍前半の頃は、日本人のマスク着用率の高さは明らかに重症化や死亡件数の抑制に貢献した。しかしその代償として、ノーマスクで歩きまわることに罪悪感を感じる空気感が社会全体に浸透してしまった。ワクチンと自然感染のハイブリッド免疫なる言葉が頻繁に聞かれるようになり、人口の一定割合が実際に感染を経験しないと集団免疫に到達できないことは明らかなようである。防御から共存へとコロナ局面がシフトしつつある今、(以前も書いたが)コロナが終わった時にマスクを外せるのではなくて、マスクを外した時にコロナが終わるのである。私たちの仮想敵はもはやウイルスではなく、「同調圧力」に対する内なる恐怖心との戦いへと変化しつつある。

同調圧力が有効に働く限り、相当数の人々が一斉にマスクを外す決意を固めるまで街からマスクが消えることはない。その意味で、一億総マスク社会は強固な安定状態にある。逆に、いったん変化が始まればあとは雪崩を打ったように様相が変わるだろう。0℃を越えるとき氷が一気に水へ融けるように、大規模な相転移が起こるに違いない。カタールのワールドカップは、一面に張った氷が解け始める最初の一滴になるかもしれない、と中継を観戦しながらふと思った。

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新装開店 [社会]

nan_curry.png最低でも月一でお世話になっていた近所のインド料理店が、今年六月に閉店した。長年のファンとして、気を失いそうなほどショックを受けたことは言うまでもない。二年以上にわたりコロナ禍を耐え抜いたのにと残念でならないが、自治体からの協力金支援が終了したことが裏目に出たのか、単にオーナーの個人的な事情なのか、真相は定かでない。

最後に足を運んだ際に淋しいですねと店長に訴えると、「厨房スタッフはいずれ別のお店で働くかもしれませんよ」と謎めいた返答を得た。店の斜向かいの格安スーパーにいつも閑古鳥が鳴いているフードコートがあって、その片隅に別のインドカレー店が入っているので、そこに再就職するのだろうかと思った。小さな店舗には多すぎるインド人シェフが所狭しと肩を寄せ合い、来ない客を待って暇を弄ぶさまが思わず目に浮かんだ。閑静な住宅街の一角という立地を考えると、固定客がつかない限りビジネスはなかなか成立しないのではと思う。

この格安スーパーは普段ほとんど訪れることはないが、ごくたまに特売品目当てに買い物に行くことがある。つい先日、大安売りのネスカフェゴールドブレンドをチラシで見つけ、久々にこのエリアにやって来た。例のインド料理店があった場所に車で近づくと、遠目に何台もの車が駐車場に停まっていることに気が付いた。もう誰かが同じ場所で新しいビジネスを始めたのかと、興味津々で車を寄せた。その店構えが目に入った瞬間、驚愕に言葉を失い、次いで爆笑した。

閉店から二カ月と絶たないインド料理店の跡地に出現したのは、何と別のインドカレー店であった。壁のペンキと看板を塗り直した形跡を除けば、旧店舗の外観がほぼそのまま残っていた。

撤退した店舗を同業他社が買い取るのは、珍しいことではない。コンビニの後に別のコンビニ、ファミレスの後に別のファミレス、そしてインドカレー店の後に別のインドカレー店。既存設備を使い回せるから初期投資が節約できるし、職を失ったシェフをそのまま引き抜ける。入れ替わりの早さから察するに、旧店舗が閉じるずいぶん前から両者の間で話が付いていたことは疑いない。「厨房スタッフは別の店で働くかもしれませんよ」の真意がわかった気がした。

旧店に馴染んだ客が次々と偵察に来るので集客効率は良いと思うが、どうしても味やサービスを比較されてしまう怖さがある。ネットでは早速旧店の常連が体験談を書き込んでいて、新店舗は何とも言えない微妙な評価だ。長年のファンは思い入れが強いので、自ずと見る目が厳しい。新店の健闘を祈る。

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JR駅員の怒号問題 [社会]

train_green.png渋谷駅の山手線ホームで駅員が客を大声で叱りつける動画が拡散した。財布を線路に落とした乗客が非常停止ボタンを押し、列車の運行を止めたことが怒りの発端のようである。駅員の態度について同情と批判で賛否が割れているようだが、動画を拡散させた「被害者」に共感する声はあまり聞かない。駅員がこれほど激高するにはそれなりの経緯があるはずだが、拡散した当人は自分に不都合な情報は出さない。その胡散臭さが見透かされている。

この一件で思い出した出来事がある。だいぶ前の話だが、アメリカの空港で搭乗便が機体トラブルでキャンセルとなり、代替便確保のためカウンターの前に長い行列ができた。なかなか進まない列で長時間待たされた乗客がイライラし始め、「何をやってるんだ!こっちには予定があるんだ!」と叫ぶ輩が現れる。日本の航空会社だったら、スタッフが飛んできて「申し訳ございません。お一人様ずつご案内しておりますので・・・」と頭を下げるだろうが、アメリカではそういうことは起こらない。何とカウンターの職員が「こっちだってシフトが終わっているのに付き合わされているんだ。大人しく待ってなさい」と大声でやり返した。しばし乗客と地上職員の舌戦が交わされた。

日本には「お客様は神様」として扱われる慣習がまだ健在だ。これが日本の誇るおもてなし文化を支えている側面はもちろんあるのだが、店側の腰が低いのを良いことにあからさまに高飛車な態度をとる客が後を絶たない。顧客と店側の立場の落差が、カスタマーハラスメントの温床を醸成している。ところが世界に出れば、支払いに見合った商品やサービスが提供される以上、カウンターの前と後で人間の立場は対等である方がむしろ当たり前だ。客は神様ではなく、売買契約でつかのま縁があっただけの他人に過ぎない。

例の駅員について「言葉遣い」を問題視する声が多いようだ。サービスを提供する側には常に丁寧な口調を求める(裏を返せば客側は言葉を荒らげても大目に見られる)あたりが、どことなく日本らしい。もちろん、駅員が感情のコントロールを失ってしまったことはやはりマズい。乗客に失礼だったからではなくて、職務遂行にあるべき冷静な状況判断が困難になるからだ。もちろん、分単位で運行される列車の安全に目を配りつつ日々さまざまな接客ストレスに晒される駅員を、上から目線で批判する意図は毛頭ない。

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さんぽセル [社会]

さんぽセルという商品が話題を呼んでいる。ランドセルに装着するキャスター付きの伸縮式器具で、伸ばせば重いランドセルをキャリーケースのように引くことができ、縮めると普通のランドセルに戻る。小学生のアイディアをもとに開発・商品化されたが、これにネットでバッシングが相次いだことで賛否両論を巻き起こした。大人の子供じみた批判に子供が大人びた反論を展開した顛末が、あちこちで紹介されている。

school_textbook_omoi_girl.pngさんぽセル開発の背景には、そもそもランドセルが子供には重すぎるという問題提起がある。私自身は、小学生の頃ランドセルが重くて大変だったという記憶はあまりない。そういうものだと思って気にしなかっただけかもしれないが、以前より今の小学生の方が物理的に重いランドセルを背負わされているのは事実のようだ。小学校の教科書のページ数は、平成の中盤から後半にかけて顕著に増えている(文科省資料)。ゆとり教育が終わったことと関係しているのかと思うが、近年さらにページ数が増したという情報もあり、ランドセルは重くなる一方だ。薪を背負って勉強していた二宮金次郎も大変だったが、今の小学生もそれに匹敵する肉体的負担を強いられているのではないか。

ペーパーレス化が進む世相とうらはらに、教科書は相変わらず紙媒体のままだ。コロナ禍の2年間で、学校教育でのタブレット活用が進んだのではなかったか。ふつうに普及しているIT技術を上手に活用すれば、教科書はむしろ大幅に軽くできるはずで、ますます分厚くなる理由がわからない。初等教育現場でもデジタル化とかSDGsとか教えているはずと思うが、未来を担う世代を育てるはずの小学校で、教材そのものが時代から完全に取り残されているのは残念というほかない。

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個人情報の話 [社会]

尼崎市全市民の個人情報が入ったUSBメモリを委託業者の関係社員が紛失するという「事件」が起きた。泥酔して路上に寝ている間に、カバンごと失くしたということである。後日スマホの位置情報から無事に回収できたそうだが、なぜ見も知らぬ私有地内にカバンが放置されていたのか本人は記憶がないという。学生のころ飲むと気持ちよさそうに路上に寝てしまう友人がいたが、件の人物はそれなりに責任ある仕事を請け負っている社会人である。会見では関係者がパスワードの桁数を明かしてしまうという珍事も起きた。いろいろと残念な事件である。

kojinjouhou_rouei_businessman.png個人情報保護法が成立したのが2003年、全面施行が2005年である。今では厳しい個人情報管理は常識となり、USBを持ち出せる管理体制自体があり得ないと指摘する街の声も聞く。もともとデータプライバシー意識の高まりが法制化の背景にあったと思うが、結果として腫れ物に触るように個人情報を扱う今の状況がより強固なデータ管理を社会に要求する相乗作用が進んでいるようである。もし尼崎の事件が起こったのが20年以上前だったら、ローカルニュースにすらならなかったのではないか。もっとも、当時のデータ媒体で40万人超の個人データを簡単に持ち運べたかどうかは別の話だ。

ただアナログデータしかなかった時代も、個人情報漏洩の問題が皆無だったわけではない。高校の卒業生名簿や卒業アルバムを買い取る業者がいて、決して応じないように、という通知が出身校の同窓会から来たことがある。1990年代だったはずだ。どういう需要があるのか詳しくは知らないが、それを思い出したきっかけはテレビの犯罪報道などで見かける加害者や被害者の「若すぎる」写真だ。近影が見つからなかったのか、とっくに成人している人物なのに卒業アルバムから切り出したと思しき過去の肖像写真をしつこく使い回す。報道関係者が何らかの手段で入手したのだと思うが、あれって個人情報管理としては問題にならないのか?加害者ならまだしも、殺人事件の被害者に了解を取ったはずはあるまい。

メディア側は、公益性云々という弁明を展開するのかもしれない。社会の側に他人のプライバシーを掘り返したがる需要があるということである。自分の個人情報が晒されたくないのと同じくらいの熱量で、他人の個人情報には無関心でいられないのが、人間の業ということなのか。

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働かないおじさん [社会]

sleep_gorogoro_ojisan.png働かないおじさん、というワードが静かに話題を呼んでいるらしい。そこそこ高給取りなのに生産性の低い中高年を差して言うようである。勤務時間中に休憩してばかり、PCに向かうと仕事と無関係のネットサーフィンばかり、ITスキルが低くて使えない、その割に周囲には上から目線で威張りくさる。安月給で働き者の若者からとくに評判が悪いようである。

でもたぶん、いろいろな問題が一緒くたになっている。働く気がないのか、それとも働く能力がないのか。本当に働いていないのか、そう見えているだけなのか。中高年だけの問題なのか、あらゆる世代が抱える課題なのか。今の世相に固有の問題なのか、昔からある話なのか。もとを辿れば社会全体の経済的余力の問題ではないか、というのが今日の話だ。

仕事が早くて的確な人がいれば、遅くてダメな人もいる。でも、どんな人も等しく食べていかないといけない。「社会を支える人」よりも「社会が養わなければいけない人」のほうが多いので、その不均衡を埋めるメカニズムがないと社会は回らない。高度成長期の日本は、右肩上がりの経済が不均衡を吸収できた。終身雇用制に守られ、仕事ができる人もできない人も安定した将来が約束されていた。当時だって「働かないおじさん」はそこかしこに潜んでいたに違いないが、誰も気にしていなかったのである。

しかし経済が低迷すると、社会はその余裕を失う。仕事ができる若者とそれほどできない中高年がパイを奪い合う(と若手が感じる)とき、「働かないおじさん」問題が顕在化する。本当にサボっているオジサンは論外として、本人なりにずっと頑張って来たし今も頑張ろうとしている凡庸なおじさんにとって、体力も能力も勝る若手から「お前はなぜ働かないのか」と詰め寄られたとき、職場における自身の「価値」をどう弁護すべきか。社会は本来、実力主義の公平性と年功序列というセーフティーネットを同時に許容しなければならない。だが停滞する経済のもとでは、その矛盾を吸収するのりしろがうまく確保できない。

コロナ禍から急速に経済が回復しつつある世界の中で、日本はいまだに出遅れている。際限なく円安が進んでも、一向にゼロ金利政策から抜け出すことができない。この状況が改善しない限り、「働かないおじさん」は叩かれ続けるのではないか。

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顔パンツ [社会]

mask_summer_hinyari_woman.pngマスク着用のほうが気持ちが落ち着く若者たちについて以前取り上げた(マスク美人と伊達マスク)。でもポストコロナへの出口戦略に逆らい頑なにマスクを外したくない人が抱える心の深層は、「気持ちが落ち着く」程度の生易しいものではないのかもしれない。マスクをしないとパンツを履いていないみたいな羞恥心に悩まされるとかで、顔パンツなる言葉が聞かれるようになった。今年の流行語大賞にエントリーしてしまうのではないか。

コロナになってから顔の下半分はメイクしなくなった、とはよく聞く話だが、メイクの手間が省けて楽という実用性の問題だけでなくて、マスク込みで顔を仕上げるパッケージが過去2年の間に完成されてしまったということかもしれない。新しい知人はマスク抜きの顔をお互い知らないから、マスクを外すと今まで見せたことのないすっぴんを他人に晒すような不安に襲われるのだろうか。身近な女性に本音を聞いてみたい気もするが、ややデリケートな話題なのでその勇気が出ない。

若い世代ほど、マスク顔しか知らない相手にカミングアウトするストレスに悩まされるようである。若者たちは、クラス替えや卒業・入学はもちろん、社会人になっても交友範囲が流動的で、コロナ後に知り合った友達も多い。一方、歳をとると職場もプライベートも生活圏が固定されている。周囲はコロナ前から互いに見慣れている人ばかりだし、そもそも50のオッサンになると自分の面構えが殺風景だろうがもはやどうでも良い。多感な年ごろの子たちはそうは割り切れないに違いない。

新型コロナが季節性のウイルスとなって「収束」したあと、顔パンツを脱げないナイーブな若者たちは果たしてどうするのだろう。時間が経つほど身の回りはますますマスク下の素顔を知らない人ばかり増えるから、下手をすれば一生カミングアウトの機会を失う。歳を重ねてコンプレックスやプライドがすっかり摩耗した頃、ようやく素顔解禁の決心が着くのだろうか。

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違和感 [社会]

pose_taiiku_suwari_back_man.png渡辺裕之さんに上島竜兵さんと芸能人の予期せぬ訃報が続いた。テレビ番組がこの話を取り上げると、どの局も最後に「どうか一人で悩まないでください。相談先の電話番号は・・・」という決まり文句で話を閉じる。潜在的に自殺願望を抱える視聴者を思い止まらせる効果があるなら、それはそれでいいのだが、どこか喉元に刺さった小骨のような違和感が拭えない。その違和感の理由をずっと考えている。

自ら命を絶つからにはきっと重い事情があったにちがいない、と私たちは考える。経済的困窮とか人間関係とか、明白な要因がある場合も多いだろう。裏を返せば、目前の悩みが解決されれば自殺は防げる、本来なら人生は生きるに値するはずだという価値観の前提がある。一方で(きっかけは何であれ)人生そのものの疲労感や空虚感にもがいている人もいる。理由のない苦しさと人知れず戦う彼らに寄り添うことと、業務連絡のように「いのちの電話」の番号を告知することが、どうしても噛み合わない。疲れたからもう休みたいという人に、どうして疲れたのか相談してみなさい、と諭すことが救いになるだろうか。

ワイドショーで故人の思い出や逸話を振り返るのはいいのだが、悲劇をネタに感動を切り売りするメディアの習性にどことなく居心地悪く感じる人は少なくないのではないか。おそらくメディアに出ている側も少々きまりが悪いのでは、と先日ふと思った。彼らが取って付けたように電話相談を勧める様子が、見え透いた免罪符のように見えたのである。そんなモヤッと感もまた違和感の遠因のような気がする。

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