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グリゴリー・ソコロフ [音楽]

music_gakufu_open.png10年以上前になるが、フランクフルトで開催されたワークショップに招かれて参加した折、仕事を終えた夜に現地のホールでピアノ・リサイタルを聴いた。しがない研究者の端くれにとって異例のVIP待遇なのだが、ワークショップ主催者が参加者全員を招待してくれたのである。プログラムを見ると聞き覚えのないピアニスト(ロシア系と思われる名前)で、ステージに現れたのは恰幅の良い中年紳士だった。一つ一つの音を慈しむように弾く素敵なピアニストで、2時間程があっという間の素晴らしいコンサートで嬉しくなった。中でも頭に焼き付いているのはモーツァルトのヘ長調ソナタK332で、とくに第2楽章の透き通るような美しさが帰国後も頭から離れない。古い楽譜を棚の奥から引っ張り出し、憑かれたように曲をさらった。一度きりのリサイタルで、そこまで発奮させる演奏に巡り会えることは滅多にない。

当時のプログラムが手元に残っていないので、あのピアニストの名を思い出す術はない。恰幅の良いロシア系ピアニストなら無数にいそうなので、これだけでは特定する手掛かりにならない。近頃私のマイブーム一位に躍り出たグリゴリー・ソコロフ(Grigory Sokolov)も、立派な胴回りで貫禄たっぷりだ。ソコロフは1966年に弱冠16歳でチャイコフスキー・コンクールを征し彗星のようにデビューしたが、鉄のカーテンのこちら側にとっては長らく幻のピアニストだった。ペレストロイカ以降は、欧州を中心に西側でも演奏活動を本格展開するようになった。しかしご本人が飛行機嫌いだそうで過去30年一度も来日公演が実現していない上、スタジオ録音もお嫌いでなかなか演奏に触れる機会がない。

幸い5年くらい前にドイツ・グラモフォンがついにソコロフと契約にこぎ付け、過去のライブ音源が少しずつ出回り始めている。ソコロフのピアノはどちらかというと遅めのテンポが特徴で、消え入りそうな静謐さもほとばしる激情も他のピアニストと明らかに違う独特の呼吸が息付き、しかしその全てがこの上ない音楽的必然性と完成度で迫ってくる。世界最高の現役ピアニストの一人としてコアなファンは多いが、無知な私は最近ようやくソコロフをYouTubeで発見し、たちまち虜になってしまった次第である。

グラモフォンのソコロフ・シリーズの一つに、2008年ザルツブルクで録られたライブCDがある。曲目リストを見ると、あのモーツァルトのK332も入っている。あれ?2008年といえば、例のワークショップがあった年だ。恰幅の良い中年紳士、ロシア系の名前。まさかとは思うが、私がフランクフルトで聴いたあのピアニストは、ソコロフその人だったのではないか?実際にザルツブルクの録音を聴くと、落ち着いたテンポで魔法のように紡ぎ出される音楽が、じわじわと記憶をくすぐる。半信半疑でググってみると、何とワークショップ開催週半ばの2008年3月5日、フランクフルトの旧オペラ座でソコロフが同じモーツァルトを弾いた記録があるではないか!私があのとき名前すら知らずに聴いて感激したピアニストは、世界中のファンがいつか生演奏に立ち会いたいと熱望する、生ける伝説だったのである。

ちょっとマニアック過ぎて伝わらなかったかも知れない。例えるなら、幼いころキャッチボールに付き合ってくれた近所のお兄さんが実は中学時代のイチローだったとか、むかし落とした財布を拾って届けてくれた女性がブレイク前のガッキーだったとか、ありえない出会いの真相をずいぶん後になって知った衝撃を妄想してほしい。ソコロフを生で聴きたくても機会に恵まれず悶々とする日本のファンに、彼のリサイタルに無自覚に居合わせたなどと告白しようものなら、きっと首を絞められるに違いない。

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