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3月11日の花火 [フィクション]

浜を見下ろす小高い丘のてっぺんに着くと、いつものように大きく息を吸って、眼下に広がる海を見つめる。若い時分は何でもなかった短い上り坂なのに、今では慎重に登らないと息が切れる。かつて所狭しと軒を連ねていた街の面影をつぶさに思い浮かべるのが、年々難儀になってくる。生まれ育った街並みを思い出せない日が来るなんて、昔は考えもしなかった。湿った潮風の感触はちっとも変わらないのに、ここから眺める景色の変わりようは、今でも奇異な感じがする。

kaden_keitai.png草むらに腰を下ろすと、胸ポケットから携帯を取り出す。画面を開けて、しばらく待つ。15年もののガラケーなので、スクリーンが灯るにもいちいち時間がかかる。バッテリーが弱っているのは確かだけど、接触もおかしい。携帯ショップに持ち込んだら、ずいぶん古い機種で修理も交換も無理ですねと、にべもなく言われた。普段用にはスマホに乗り換えて久しいから不便はないけれど、このガラケーは捨てられない。刺すような冬の空気に混じって、かすかに春の暖かみを運ぶ海風がそっと頬をかすめる。

画面上にアイコンが出揃うのを辛抱強く待って、SMSアプリを立ち上げる。『大丈夫?これからそっち行く』幾度となく見返した最後の着信は、10年前のあの日で止まっている。あのときすぐに返信したけど、それきりレスはなかった。この丘の上でずっと待っていたけど、再会は叶わなかった。そのあといろいろなことがあって、海の見えない遠くの街で新しい仕事を見つけた。それでも毎月この日にはこの丘にやって来て同じように海を見つめ、草むらの同じ場所に座ってガラケーを開き、届くあてのないメールを出す。とりとめのない近況報告を書き連ねることもあれば、「どうして?」しか書けない日もあった。わざわざこの丘まで足を運んでくるのは、毎夏一緒に花火を見に来た思い出の場所だからでもあるけれど、本当の理由は別にある。

LINEじゃないから既読は付かないし(あの頃LINEはまだなかった)、もちろん返事が来るわけもない。宛先の番号はもう解約されているから送信エラーが返ってくるだけ、と誰かに言われたが、一度もエラーなんて戻ってこなかった。たぶん向こうの世界とつながる秘密の基地局が、丘の近くどこかに佇んでいるのだと思う。そこで目に見えないアンテナを天まで伸ばして、送ったメールを黙々と届けてくれる。そんなことはあり得ないと頭ではわかっているけど、心は自然にそう受け入れている。いま暮らす街で家からショートメールを送ろうとしたこともあるけれど、取り返しのつかない過ちのような気がして止めた。1時間半の道のりを独りでドライブし、海の見える丘に登ってガラケーの電源を入れるのが、毎月のささやかな儀式のようになった。

レスが来ないのはもちろん今でも寂しい。でもメールを書いているあいだだけ、ほんの少しだけど心が鎮まる。いくら年月が経ってもつらさが癒えることなんてないけれど、ずっとこぎ続けていないと倒れてしまう自転車のように、日々やるべきことを淡々とこなしていくしかない。初めは補助輪を外したばかりの子供みたいに転んで泣いてばかりだったけど、今はよろけつつも少しずつ前に進めるようになったよ、まだまだ自信はないけどね。そんなことをとりとめもなく綴って、送信ボタンを押す。空を見上げ、ゆっくり海の方へ流される雲の群れに見入る。ずっと上空を旋回していた鳶の声が、いつの間にか聞こえなくなっている。画面の時計を見ると思いのほか時間が経っていたことに気づき、ガラケーをパチンと畳む。すると、まるでその瞬間を待っていたかのように、携帯が手中でブルブルと鳴った。

ひどく驚いたせいで、携帯が手から滑り落ちる。慌ててつかみ取ろうと手を伸ばしたら逆に跳ね飛ばしてしまい、携帯は前方の草むらに着地し丘の斜面を転がり落ちていく。それを追って、自分も転がるように斜面を駆け下りる。このガラケーの番号を知っている人はもういない、少なくとも「こっち」の世界には。勢いのついた携帯は地面から突き出した石にぶつかり、ガツンと嫌な音を立ててようやく止まる。飛びつくようにガラケーを拾って開けると、新着一件を知らせるロゴが点いている。ウソみたいに指が震えて、うまく押せない。ようやく開封ボタンを押した瞬間、画面いっぱいに色とりどりの光が花火のように輝き、それきりフッと真っ暗になった。

呆然と携帯を見つめたまま、どれほど時間が経ったかわからない。われに返って、カバーを閉めたり開けたり、電源を入れたり切ったりする。いつもはそれで接触不良が治るのに、何度試しても画面は黒いままだ。よりによってなぜいま壊れるんだ?やり場のない怒りが頭の中を駆け巡る。やがて怒りが引いてくると、あまりの間の悪さに今度は場違いな笑いの衝動がこみ上げる。笑ったせいで舌の上にしょっぱい雫が流れ込んできて、自分がさっきから泣いていたことに初めて気づいた。涙のこびりついた顔に夕刻の冷気を感じて視線を上げると、水平線に接する空が濃紺のグラデーションに沈みはじめている。

すっかり日が落ちた帰路を運転しながら、携帯の画面で最後に煌めいた光のことをずっと考えている。着信を確認する前にガラケーの回路が飛んだと思っていたけど、そうじゃない。あのとき返事はちゃんと届いていた。いつもあの丘から二人で眺めていた花火の、あれは最後の一輪だったのだ。まだまだ自信はないけどって送ったから、背中をそっと押してくれたんだね。大丈夫、補助輪はなくても、たぶんもう一人でどこまでも進んで行ける。



東日本大震災から10年目を迎えた。真正面から向き合うにはあまりに重く、被災者でない私が下手に評論じみた随想を綴ると、何を書いても皮相的でウソっぽくなってしまう。そこで、どうせウソならいっそフィクションにしてしまおう、と思い立った。あの日から10年を耐え抜いた無数の人たちを想い、乏しい想像力を精一杯絞った拙い産物である。

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