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小倉ロス [社会]

フジテレビの朝の看板番組『とくダネ』が終了し、代わって『めざまし8』が始まりひと月が経った。やはり『とくダネ』の小倉智昭キャスターが恋しい。小倉さんがツッコむ程よい苦味が番組の持ち味だったのだが、新番組は完全にサビ抜きされてしまいどこか物足りない。

tv_camera.png番組名から察するに、『めざましテレビ』を8時以降も綿々と続けるコンセプトなのかと察する。その狙いはある程度達成されているかも知れない。ただ『めざましテレビ』はエンタメ系が中心の軽い作りなので、出演者が内輪ではしゃぐノリでも別に構わないのだが、『とくダネ』や『めざまし8』はシリアスな時事ネタも扱う報道系ワイドショーだ。『めざまし』から『8』に抜擢された永島優美アナは才気あふれるキャスターだと思うが、『めざまし』で確立した彼女の天真爛漫キャラを忠実に演じ続ける熱意が、見ていてときどき痛々しい。

いっそチャンネルを変える手もあるのだが、地上波のワイドショーはどこも目指す着地点はあまり変わらない。あおり運転のドラレコ動画を見て憤り、大谷翔平選手の活躍にエールを贈り、著名人の訃報に頭を垂れる。まずは怒る、ここでは感動する、次は一緒に悲しむ、と視聴者の情緒的反応までお節介にパッケージ化されているようで、いささか鬱陶しい。その点では『とくダネ』も例外ではなかったのだが、メインキャスターでありながら小倉さんが時に番組の予定調和を破壊するような喝を入れるのが、胸のすく思いだったのである。

古市憲寿さんや三浦瑠麗さんといった曲者コメンテーターも、小倉さんのツッコミがあったからこそ生き生きとしていた。お二人は『めざまし8』でも引き続き出演しているが、彼らの変化球を打ち返せる出演者がいないので、せっかくのコメントが宙に浮いたままスルーされる。小倉さんは導火線が短そうなタイプだが、明らかにストライクゾーンから外れた古市さんの曲球を何だかんだ言いつつちゃんと掬い上げる懐の深さがある。永島アナとタッグを組む谷原章介さんは好人物なだけに、変化球に手を出して派手に空振りするよりも、見送って四球で出塁する方を好むようである。

当たり障りのない井戸端会議をテレビで鑑賞しても仕方ないので、ワイドショーの制作側はもう少し攻めるキャスターを引っ張って来てもいいんじゃなかろうか。小倉さんのレベルに到達するにはおそらく相当な経験と引き出しの豊かさが求められるから、簡単に相応しい後任者が見つかるとは思わない。でも、フォアボールか見送り三振しかない野球の試合を見ていても、退屈ではないか。

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ちりめんじゃこと小さなエビ [その他]

忘れっぽいので小さい頃の思い出はかなり曖昧だが、幼稚園のできごとでいくつか鮮明な記憶がある。一つは、怖くて近寄れなかった同じ組の子。それを知った母が保母さんに何気なく相談したところ、私が恐れていたのはガキ大将でも何でもない、普通の大人しい男児だったらしい。実はその保母さんご当人も、私にはとても怖かった。ある日私がサメの絵を描いていたところ、後ろから覗き込んだ保母さんが何を思ったか、パックリ開けたサメの口に歯をぐいぐいと描き込んでくる。コラボのつもりだったに違いないが、そっちは口じゃなくて尻尾なんだと言い出せない私は、異形と化していくサメを呆然と見つめる他なかった。一つだけ嬉しかった思い出は、いきさつは忘れたが事情で園児不在の休日に幼稚園を訪れたときのことだ。送迎バスの運転手さんが私一人を乗せ、近所を一周してくれたのである。普段は園児の激戦区で絶対に座れない最前列を確保し、幼稚園バスを貸し切りでドライブできるなんて、天にも昇る心地だった。

fish_shirasu.png小学校に上がってしばらくするとビビリも次第にマシになり、その反動なのか目立ちたがりの性格傾向が芽を出した。しかし私が言い出すことや夢中になることは、たいてい少し(またはかなり)ズレていた。誰も気付いてもいなかったと思うが、ちりめんじゃこの袋に混入する小さなエビになったような異物感が、胸の奥で少しずつ膨らんでいった。ときどき休み時間に友達の輪に加わらず、校庭の周囲を独りぐるぐると歩き回ることがあった。植え込みとフェンスにはさまれた狭い隙間に側溝が綿々と続いていて、溝蓋の上を忠実にたどって歩くと列車の運転手になったような気がして楽しかったのである。一度だけ、あれは独りで何をしているのかと友達に尋ねられたが、悪事を見咎められたような気まずさを感じて、何も答えられなかった。

学生時代で一番楽しかった時期は、遅ればせながら大学院の頃だ。小エビや子ガニが珍しくない、風変わりな環境だったからだと思う。大人になれば、自分にあった居場所を自分で選ぶことができる。職場がどうしても合わなければ、転職する選択肢がある。住む街も趣味の付き合いも、さまざまな制約やしがらみがあるとは言え、最後は自分の意思で決めることができる。しかし子供にとっては家庭と学校が生活のほぼ全てで、学校を選ぶ権利はおろかクラスを変える自由もない。稚魚の群れに埋もれて真っ白に染まりさえすれば、学校は快適な小宇宙かもしれない。しかしそこに紛れ込んだ小さなエビにとっては、子供同士の世界はどこか窮屈で、時に残酷ですらある。

今年も新学期が始まった。たぶん、教室の中で一人アウェーの空気を感じ、満たされない心の疼きを抱えて日々を過ごす子たちもいるだろう。彼らに伝えられることがあるとすれば、君たちが大きくなればきっと今より生き易くなる、ということだ。いくつになっても社会は相変わらず理不尽かもしれないけれど、物心ついた頃から理不尽の海で泳いできた君たちは、そこで溺れない術を知っている。それに、学校に比べて大人の社会ははるかに広くて猥雑だ。小さなエビが逃げ込める隙間もあるし、その気になればちりめんじゃこの袋の外に飛び出していくこともできる。自分自身もちょっと賢くなって、他人のことをもう少し分かるようになる。

何よりも、いつか誰かがちりめんじゃこの山から小エビを見つけ、四つ葉のクローバーを引き当てたように喜んでくれるかも知れない。ひねくれず迎合もせず正直に生きていれば、いつか世界のどこかに自分に暮らしやすい片隅が見つかる。ということを、私はずいぶん歳を重ねてから信じられるようになった。

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チャレンジ [語学]

dictionary.png菅総理とバイデン大統領の初顔合わせが、つつがなく終了した。中日新聞の一面記事を読んでいたら、会談後の会見でバイデン大統領が「東シナ海や南シナ海の問題で中国の挑戦を受けて立つ」と強調したとあり、びっくりした。挑戦を受けて立つなんて挑発的なことを、首脳の共同会見で普通言うだろうか。もともと発言が不安定で周辺をヤキモキさせていたバイデンさんが、ついにトランプ化したかと思わず戦慄したが、大統領が実際に言ったフレーズを確認すると「take on the challenges from China」である。「中国の挑戦に対処する」とか「中国がもたらす難題に取り組む」くらいが適当なニュアンスではなかろうか。

もし「take up the challenges」だったら、進んで挑戦を受ける響きがあったかもしれない。一方「take on」は、売られた喧嘩を買うトーンは控えめではないかと思う。それに加え、英語のchallengeは和製英語で言うチャレンジ(挑戦)と少し違う。ボクシングの挑戦者は確かにchallengerと言うが、英語のchallengeは必ずしも試合や決闘のような対立の構図を前提にしておらず、一筋縄ではいかない厄介な問題全般の意味で広く使われる。政策決定や科学技術の現場で、解決を要する重要課題をgrand challengesなどと呼び、努力目標を可視化することがよく行われる。

ついでに言えば、「新しいことにチャレンジする」と言うときのチャレンジも誤訳を誘発しやすい。例えば格式高い茶会に招待されてビビる外国人に「Challenge it!」と言っても、多分通じない。下手をすると、茶を愛でる文化風習に意義を申し立てよ、みたいな意味合いになって、言われた方はますます引いてしまうだろう(正しくはたぶん「Give it a try」あたりが無難か)。

「mentally challenged persons」や「physically challenged persons」という表現があって、それぞれ知的障碍者・身体障碍者のことである。最も標準的な表現はおそらく「persons with intellectual/physical disabilities」だが、それよりやや持って回った語感か。日本語のチャレンジ感覚では絶対に出てこないニュアンスである。この延長で「vertically challenged(小柄な)」「horizontally challenged(太めの)」「socially challenged(引っ込み思案な)」など、悪ノリに近いジョークも含め無数の応用例が存在する。

〇〇challengedという言い方は、基本的にはあたりの柔らかい婉曲表現である。しかし裏を返せば、心身能力や体型や性格に関する社会的標準を暗に設定し、標準からのズレを揶揄する上から目線のニュアンスも感じる。多様性を重視する昨今の価値観からは、むしろ逆行しているのではないか。そのうちナントカchallegedという言い回しそのものがchallengeされて、徐々に使われなくなっていくかも知れない。

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100日前 [スポーツ]

taimatsu_olympic.png東京オリンピックまで、あと100日を切った。かたや、第4波とやらが連日ニュースを賑わせ、ワクチン接種はようやく始まったばかりだ。そんな中、二階自民党幹事長がオリンピック中止に含みを持たせた物言いをし、世間をちょっとざわつかせた。

聖火リレーが進んでいて、都市部ではそれなりに沿道が混み合っている。それについて聞かれた丸川五輪相が「私も正直(人出が)多かったなと・・・」と他人事のようなコメントをしていた。聖火リレーの安全対策は地方自治体の管轄だから国の知ったことではない、とでも言いたいのか。彼女の立場ならむしろ、屋外でマスク着用している限り多少密でも感染リスクはありません、と言い切ったほうがだいぶ良かった。この温度感のまま行くと、オリンピックが始まって何かトラブルが起こったとき、JOCと組織委員会と都と国が互いに責任をなすりつけ合うグダグダな気配が目に浮かぶ。

池江璃花子選手が代表入りしたことで、機運だだ下がりだった世論の潮目が変わった、とはしゃぐ人たちがいる。ちなみに直近(10日、11日)に行われた朝日の世論調査では、今夏のオリンピック開催に期待する人は依然3割に満たない。池江さんのことは心から尊敬しているが、彼女が頑張ったからといってウイルスが退散してくれるわけではない。なにしろ選手とスタッフだけで、数万人規模の人たちが世界中からやって来る。当然PCR検査は徹底するだろうが、水際対策をすり抜けるケースは一定の確率で必ず起こる。テニスの全豪オープンの時は入国時の機内で感染者が見つかり、錦織選手など同じチャーター便に乗っていた全員が2週間の自己隔離を余儀なくされた。試合を控えた選手にとって明らかな不利益だが、選手の不満や批判を浴びてでも国民や大会参加者を守りきる、という決意が主催国としての責任感なのだと思う。

バブルと呼ばれる完全隔離体制でスポーツの大会を行う試みは世界で行われていて、ノウハウも蓄積されつつあるかと想像する。しかしオリンピックは個別競技の大会と比べ、人数が桁違いに多い。選手村の規模は、ソーシャルディスタンシングを想定して作られていないから、選手村クラスターの発生リスクはもちろんゼロではない。感染対策のルールを守らない参加者がいた場合、出場禁止や強制送還のような毅然とした対応ができるのか。ただでさえ脆弱な日本のコロナ医療体制の中で、オリンピック対応に医療スタッフを動員する余裕が本当にあるのか。最悪の場合、オリンピックを途中で中断する覚悟はあるのか。そういった想定問題集を隅々まできっちり解いた上でなら、今夏の開催は不可能ではない。しかし聖火リレーの状況一つ見ても、主催側にそれだけの準備と管理能力が本当にあるのか、今ひとつ心許ない。

二階さんは言わなくてもいいことを口走る癖があるが、今回のオリンピック発言に限って言えば的を得ている。中止は簡単な決断ではないが、未だどう転ぶかわからないコロナ禍にあって、可能性の話としてはあらゆる選択肢を当然想定しておくべきである。組織委員会やIOCは絶対やりますの一点張りで、立場上そうとしか言えないのかも知れないが、腫れ物に触るようにオリンピックを語るのはいい加減考え直したほうがいいのではないか。メディアも含めオリンピックの話題になるとすぐに情緒論や精神論にハマるきらいがあるが、コロナそのものよりその思考停止ぶりが不安で仕方がない。

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シャチハタ印 [その他]

届出などの書類に押印するとき、シャチハタ印は不可、という注意書きをよく見かける。なぜダメなんだろう。そもそも、特定のメーカーを名指しして排除するなんて、許されるのか?

inkan_syachihata.pngシヤチハタ社(正式名称はヤが大文字)は、もともとスタンプ台の製造で成長した会社である。その技術をもとに、押すだけで内部からインクが染み出す朱肉不要の印鑑を開発した。俗に言うシャチハタ印とは、この浸透印のことを指す。浸透印がなぜ銀行などで使えないのか、ググると山ほど関連記事が出てくる。ざっと見る限り、インクが朱肉に比べ長期保存に向かない、印面がゴム製で印影が変形しやすい、量産品ゆえに印鑑としての証明能力が弱い、の3つくらいに集約される。真偽は私には測りかねるが、3つ目が少し引っかかる。量産品ならべつに浸透印に限らず、百均で売っている三文判だって事情は同じはずだ。さすがに実印は必ず特注だと思うが、銀行印くらいなら量産品を使う人のほうが多いのではないか。

家にある複数の認印を見比べると、どれも印影が少しずつ違う。三文判はメーカーが乱立して千差万別だから、買う店が違えば全く同じ商品に巡り合う可能性は低い。誰かが印鑑を偽造しようと同一製品を探しても、実際に割り出すことは困難と思われる。一方、シヤチハタのロングセラー「ネーム9」は浸透印のシェア80から90%を占めると言うから、十中八九は特定できてしまう。ハンコの皮肉な宿命か、売れれば売れるほど独自性を失い、印鑑としての存在価値は色褪せる。シヤチハタ社にとっては、自社製品にNGを喰らうこと自体、むしろその圧倒的優位を証明する勲章ということかも知れない。

テレワークが増えて紙文書ベースの決済が不便になり、職場内では脱ハンコの潮流が加速している。河野行革相がこれに便乗し、省庁の押印原則廃止を突然ぶち上げたのも記憶に新しい。個人的には煩わしさが減るので歓迎だが、印章業界にとっては死活問題になりかねない。そんな中、最近良く見るCM(唐沢寿明さんが出てるやつ)によれば、シヤチハタはクラウド電子決済サービスに進出しているようである。印鑑メーカー自ら進んで、会社や役所の書類から消えゆくハンコに引導を渡しているように見えなくもない。スタンプ台のメーカーだったのにスタンプ不要の印鑑を作って名を馳せた会社だけあって、ある種の自己否定をバネに飛躍するしたたかさが、ちょっとカッコいい。

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不幸の手紙と変異株 [科学・技術]

mail.png不幸の手紙、と言っても若い人はピンとこないかも知れない。私も実物に出会ったことはないが、子供の頃ドラえもんの『不幸の手紙同好会』というエピソードでその存在を知った。封を開けると何やら不吉な文言が書き連ねてあり、この手紙を一言一句変えず〇〇日以内にXX人に出すこと、さもなくばあなたに不幸が訪れる、と締めくくられるのが基本パターンだ。今で言うチェーンメールの走りだが、当時は手書きの手紙しかなかった時代、こんな課題を押しつけられては面倒くさいことこの上ない。それはさておき、これを題材にちょっとした思考実験をやってみよう。

ある町(A町とする)で不幸の手紙が見つかった。送り先の指示が10人だったとしよう。すると手紙を受け取る人数は、1人から10人、10人から100人、100人が1,000人、と指数関数的に増えていく。ところが手紙を書き写し損じた人がいて、15人に送るよう指示が変わってしまった。すると15人、225人、3,375人と拡散が加速する。10人バージョンと15人バージョンで不幸の手紙が行き渡る速さを比較するため、手紙全体に対する占有率を計算してみる。仮にスタートラインが同じとすると、15人バージョンが手紙全体に占める割合は、15/(10+15)=60%、225/(100+225)=約69%、3375/(1000+3375)=約77%、と日増しに増えていく。たった一度の書き間違いが、やがて本来のバージョンを駆逐し大勢を支配していくのである。

B街の住民はもっと冷めていて、不幸の手紙を受け取った人の多くは「アホくさ」と放置する。5人中1人だけが几帳面に拡散するとしよう。10人バージョンの場合、手紙を受け取った10人中2人が各10人(計20人)に手紙を書き、その20人の5分の1にあたる4人が計40人に・・・、と言う具合だ。A町が1,000人に拡散するあいだ、せいぜい数十人規模にしかならないわけだ。もしB街でも誰かの書き損じで15人バージョンが登場したとすれば、1人 → 15人中3人 → 45人中9人 → 135人のように増えていく。A町と同じように15人バージョンの占有率を見積もると、15/(10+15)=60%、45/(20+45)=約69%、135/(40+135)=約77%となる。出回る手紙の総数は桁違いに少ないB街でも、両バージョンの内訳はA町と全く同じ結果になる。

薄々お気づきと思うが、不幸の手紙は感染症の隠喩で、書き損じから生まれた15人バージョンとは変異株のことである。A町もB街も同じように変異株がいて、従来株よりはいくらか拡散が速いものの、現実に拡散速度の差を生んでいるのは人々の行動癖の違いである。オカルト的なフェイクニュースに動じないB街では、不幸の手紙の拡散スピードはA町より圧倒的に遅い。同じ変異株でも、A町の実効再生産数は15だが、B街では3に過ぎない。しかし変異株が60%、69%、77%と増えている状況はいずれも同じだから、この数値自体は感染規模全体を決める説明変数にはならない。つまり、変異株が占める割合が増えていることと、感染拡大が加速していることは、別の問題である。

変異株が大阪の感染を急拡大させたと明言する人が、政治家にも「専門家」の中にもおられる。しかし上述の通り、変異株が従来株に置き換わりつつあるという疫学的事実をもって、変異株が感染を加速させていると早とちりしてはいけない。変異株の割合が増えているのに全体としては感染が縮小するフェーズもあったし(2月頃の神戸など)、逆に感染力が強いとされる変異株(N501Y)とは無関係に感染者数が急増していた地域もある(宮城県など)。変異株があろうがなかろうが、感染が増えるときは増えるし、減るときは減る。不幸の手紙と同様、感染者数の変動を左右するのは基本的に行動変容である。変異株が従来株を乗っ取る過程は、感染実態のデータを素直に見る限り、感染拡大の原因というよりむしろその結果と解釈するほうが自然だ。

もちろんさらにパワーアップした変異がいつか出現する可能性はゼロではないので、ゲノム解析で状況をモニターする体制整備は必要と思う。でも変異株が見つかるたびいちいち過剰反応するのは、弊害も多い。変異株の患者を従来株と別室で特別に治療する病院の取り組みを聞いたことがあるが、医療現場を逼迫させるだけで何も良いことはない。それに、煽りすぎると人々のメンタルが疲弊し、変異株の脅しが効かなくなってむしろ逆効果だ(フランスではたぶんこれが起こってるのではないか)。不幸の手紙が届いたらビビって拡散したりしない理性が肝心であって、文面に書かれているのが10人なのか15人なのか、その程度の違いに大騒ぎしなくてもいい。

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ゾンビ [政治・経済]

日本で欧米のような強制力を伴うロックダウンが実施されないのは、日本国憲法に緊急事態条項がないせいで国民の権利を制限できないからだ、という議論がある。法律論としてはそうかもしれないが、コロナ対策に関してはあまり事の本質ではない気がする。

ドイツのメルケル首相がイースター休暇中に厳しいロックダウンを実施する方針を宣言したが、性急にすぎたか総スカンを喰らいすぐに引っ込め混乱を詫びた。日本はというと、先月緊急事態宣言を延長した際に菅首相が何やら謝罪していた。片や対策が厳しすぎたことに、片や緩すぎたことに国の元首が頭を下げる事態が、好対照である。ドイツをはじめ欧米諸国のコロナ対策は、良くも悪くも政府と国民のギリギリの緊張関係で成立している感がある。日本政府はなるべく事を荒立てたくないのでしばらく傍観し、事態が手に負えなくなるとしぶしぶ宣言を出す。必然的に、あらゆる対応が後手に回る。ワクチン接種が諸外国に比べピカイチ遅いのも、そんな日和見主義の延長にある。

後手に回るのは、今に始まったことではない。福島原発は非常用の発電機が地下に設置されていたため、津波で水没し原子炉の冷却機能を失った。歴史に「もし」はないとは言うが、仮に冷却用電源が生きていたら、水素爆発を回避できただろうかとつい想像してしまう。無限に高い防潮堤を作ることはできないが、非常用発電機の設置場所くらいは変えられる。それでも放置したのは、東電が大津波の可能性を想像すらしたくなかったせいかと推察される。原発の安全神話は、それが安全であってほしいという願望が結晶化したものだった。ホラー映画を観ていていつも目をつぶってしまう人が、目をつぶりさえすれば不愉快な現実が本当に消えて無くなるといつしか信じ込んでしまうようなものだ。ある日、本物のゾンビが目の前に現れたら、真っ先に捕まってしまうのはこういう人たちである。

fish_mola2.pngコロナについて言えば、現場ではゾンビとの付き合い方は大体わかってきている。当面は大阪方面を中心に、送別会シーズンではっちゃけた後始末を何とかしないといけない。行政の対応はというと、第4波だの変異ゾンビだのと危機感を煽るわりにGoTo再開に前のめりで、表玄関を施錠しながら勝手口からゾンビを招いている支離滅裂感がある。この状況は、仮に現行の憲法に緊急事態条項があっても、たぶん変わらないだろう。政府は強い対策を打ちたくても打てないのではなくて、本当は半目でゾンビをやり過ごしたい本音が透けて見えるからだ。最近話題の「まん防」にしたって、スケールダウンした緊急事態宣言を地方自治体に丸投げしているに等しい。ちなみに魚のマンボウは、3億の卵を産んで数匹しか成魚にならないとか、繊細すぎてちょっとした衝撃ですぐ死んでしまうとか、儚い生き物の象徴のように言われる(どちらの説も根拠薄弱らしいが)。コンボウとかヨウジンボウみたいに強そうな名前をつけておいたら、もう少し国のコロナ対策にも気迫がにじみ出ていたんじゃないか。

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音楽室のJ-Pop [音楽]

gassyou_all.png一年後から高校の教科が再編されるとかで、新しい教科書の内容が明らかになった。プログラミングを習う「情報I」なる必修科目が新設されるらしい。それよりも興味を惹かれたのは音楽の教科書で、ある出版社は米津玄師の『Lemon』を譜面入りで掲載しているそうである。私が中高生だった頃は、音楽の授業といえば『浜辺の歌』に始まり『大地讃頌』で終わるような保守本流であり、J-Popが音楽室に侵入するなど想像も及ばなかった。隔世の感がある。

個人的には『Lemon』は米津玄師の楽曲中で2番目くらいに好きだが、教室向きかと考えるとよくわからない。短調で始まって長調で終わるので、楽理としてはセオリーからやや外れている。そもそもかなり暗く内向的な歌詞だから、これをクラスみんなで斉唱する光景を思い浮かべると、ちょっと痛々しい。ちなみに私が一番お気に入りの米津作品は『打上花火』だ。5音音階ベースの物憂げで美しい米津節が基調ながら、女声(DAOKO)とのデュオという特色も手伝って、音楽が変化に富んで開放感がある。でも実は『打上花火』はイントロ・Aメロからサビに至るまで、C♭ → D♭ → E♭m7 → G♭というたった4つのコード進行の繰り返しでほぼ成立している。インストのパートとか何だか往年のスティーヴ・ライヒっぽいし、ミニマル・ミュージックの遠いこだまも聴こえる。

どうせカリキュラムを再編するなら、別の教科をまたいだコラボでもやってみてはどうだろう。YOASOBIは曲が小説とタイアップしているから、国語の授業と連携できそうではないか。ただユニット名が夜遊びでは、教育的指導が入ってNGかも知れない。公民は現代社会に代わって、新たに「公共」という科目ができるそうだ。趣旨がよく飲み込めないが、人間と社会のあり方を討論も踏まえつつ主体的に学ぶ場らしい。それなら、椎名林檎と宇多田ヒカルのコラボ曲『浪漫と算盤』から、出だしの一節を教材にいかがか?音楽は椎名林檎のレトロなジャズ趣味がまろやかに熟成した絶品だが、そこに載せる彼女の歌詞がまるで漢詩のようで度肝を抜かれる。


主義を以って利益を成した場合は 商いが食い扶持以上の意味を宿す
義務と権利双方重んじつつ飽く迄 両者割合は有耶無耶にしていたい

アラフォー世代を代表するこの天才二人が意気投合するだけで奇跡のようだが、お二人は5年くらい前にも『二時間だけのバカンス』で共演している。『にじバカ』は宇多田ヒカルからの楽曲提供で、とてもチャーミングな逸品だが歌詞の内容が社会の規範からちょっぴり自由なので、たぶん教科書検定は通らないだろう。

ところで、高校で音楽を教える意味って何だろう?今さらリコーダーやピアニカの吹き方を習うわけではあるまい。数学や理科と違って、筋道だったロジックや正答もない。音大に行くのでなければ、受験にも必要ない。でも、古文で習った文法は人生で二度と思い出さないかも知れないけれど、音楽のない世界は想像もできない。RADWIMPSに『正解』という歌があって、教室と違い正解のない社会へ船出する若者を暖かく見送る、野田洋次郎らしい透明感のあるバラードだ。『Lemon』よりも高校生の感性にストンと落ちるかも知れない。つまるところ学校の音楽室は、机に向かってノートを取っても手に入らない普遍的で大切なものがあることを、心で学ぶ場ということなんじゃないか。

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