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人生勇退 [その他]

taisyoku_hanataba_old_man.png勤め先に定年があるように、人生もいつか終わりが来る。大きな違いは、会社から退職するときは送別会で華々しくお祝いされるのに、人生の最期は悲しみの中で看取られることだ。若くして予期せぬ死に直面した場合は無理もないが、寿命を全うし人生を勇退するなら、「お疲れさまでした、ありがとう」と明るく見送られてもいいんじゃないか。

もし人生の終着点を自分で設定することができたらどうだろう?例えば「75歳の誕生日で人生から引退する」と決めることが可能だったら?

健康でいながら人生の残り年数がはっきりするから、終活には理想的な条件だ。生きている間に時間や資産を計画的に消費することができる。ずっと行ってみたかった大旅行に行ったり、ずっと欲しかった大きな買い物をしてもいい。死ぬまでにもう一度会いたい昔の友人に思い切って連絡を取って、旧交を温めるのもいい。そして時期が近付いたら縁のあった人々を招き「送別会」を開いて、盛大に見送ってもらう。いよいよ最期の日は、家族や親友に見守られて寝床に付き、眠ったまま安らかにお迎えが来る。世を去る直前に自ら財産整理を済ませてしまえば、死後に遺産を巡って諍いが起きることもない。

人は必ず死ぬとわかっていながら私たちが死を恐れるのは、死がいつどのような形で訪れるのか見当もつかない不確実性によるところが大きいではないか。職場の定年であればあと〇年と予め計算できるように、自分で定めた人生のゴールまで残り時間が正確に見通せたら、死の恐怖はむしろ和らぐかもしれない。もちろん、ゴールに至る前に不遇の死を迎えるリスクは避けられない(極端な話ゴールを120歳に定めたら何も決めないのと同じである)。その意味では、早めに人生勇退を定めておく方が賢明だ。つまるところ、長く人生を楽しみたいという希望と、人生の不確実性を最小化したいというリスクマネジメントを秤にかけ、その最善のバランスで「引退年齢」を決めることになる。

もちろん遺された人々にとっては、どんな形であれ身近な人の他界はつらい。でもどうせいつか必ず別れを経験するのだから、せいいっぱい悔いのないよう人生を店仕舞いする機会を事前に整えておくことができるなら、結果的にはそれが理想的な見送りではないか。というような絵空事を、時々考えている。

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それ、逆です [その他]

美術館の名画に缶詰の中身をぶちまけるクレイジーな環境活動家があちこちに出没している。展示中の絵画は大抵ガラスで保護されているので幸い本体は損傷は免れているが、当人たちは唯一無二の芸術作品をかけがえのない地球にたとえて世間を挑発しているつもりのようである。

bijutsu_art_paint.png彼らは決まってゴッホやフェルメールなどの定番の名作をターゲットにする。衆目を集めるには誰もが知る名画を狙うのが近道かもしれないが、環境破壊反対のメッセージとしてはいささか知恵が浅い。地球環境問題を意識する難しさは、身の回りで起こっていることが地球全体に及ぼす影響を想像しづらい無自覚性にある。どうせ狼藉を働くなら、トマト缶をぶちまけても汚損なのか芸術の一部かわからない前衛作品を選んでみてはどうか(決して煽っているわけではない)。傍目にわかりづらいが実は大変な損害が起きている、という意味でより相応しいメタファーのはずだ。

モンドリアンのとある作品が77年間にわたり上下逆に展示されていたのではという疑惑が話題を呼んでいる。縦横の線をモチーフにした幾何学的な作風で知られる画家だけに、素人目にはどちら側が上でも下でも違和感がない。気付いた学芸員もすごいが、四分の三世紀にわたり気付かれずにいた絵画自身も相当なものである。ひっくり返ったまま70年以上人々の目を楽しませてきたのなら、それはそれで「正しかった」のではという気もする。

一方、77年間も地球温暖化対策を放置したらきっと取り返しのつかないことになりそうだ。地球環境問題になぞらえるには、芸術はあまりに多様で奥が深い。

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自己発見 [その他]

「自分探し」という言葉は、いつもどことなく胡散臭い。本当の(今より良い)自分なるものがどこか他所で見つかるはずという儚い幻想が透けて見えるからだ。自宅でビールが切れたからスーパーで一パック買ってくるノリで「本当の自分」が手に入るなら、誰も苦労はしない。冷蔵庫に残っているのが特売の発泡酒一本だけだったら、いくら嘆いてもそれが紛れもない「自分」なのである。本当の私はプレモルに値するはずだと自分探しに頑張ってみても良いが、必死で背伸びを続けることが人生を豊かにしてくれる保証はない。

mirror.png私は人生で一度だけ紛れもない「自己発見」の瞬間があった。物心つくかつかないかくらいの遠い昔の話だ。鏡に映る風采の上がらぬ男児の姿を見て、そうかこれが「自分」なのかと天啓のように閃いた瞬間があったのである。

少し補足説明が要りそうだ。このできごと以前、私の自己認識はひどく希薄で、敢えて言うなら透明人間のような観察者に近かった。例えば友達と遊んでいるとき、私にとって友達は当然みな実在しているが、彼らの視点で自分が一人の人間として映っているとは思ってもみなかったのである。一対一で会話をしていたのだから今思い返せばいろいろ辻褄は合わない。だが友達にも一人ひとり主体があって、彼らからは自分は逆に一人の他者として見えているのだと、鏡の中に自分を認めた私はその時ようやく悟ったのである。

突然訪れた「自己発見」の到来に、幼い私は喩えようのない感情で圧倒された。なぜ自分はこの「私」に選ばれたのか、なぜ友達Aや友達Bではなかったのか。サイコロを振ってなぜ一の目が出たのかと考え込むような、答えのない問ではある。当時その心境を言語化する思考能力はもちろんなかったが、今思い返すと、ある意味で世界の「対称性の破れ」を発見した瞬間だったとも言える。私の自意識は誰に宿っていても良かったはずなのに、鏡のなかに佇むどことなく冴えない少年が私で、友達はそれぞれ別の自意識を持った他者だという究極の非対称に気付いてしまった。それ以来、鈍痛のような自己認識との長い付き合いが始まることになる。

「自分探し」とは、自己像への漠然とした不満から逃れようとする逃避願望に過ぎない。ほんとうの自分もウソの自分も、どこを探そうとも結局自分の中にしか存在しない。それを受け止める覚悟ができたとき、自分探しの旅が終わる。プレモルやエビスに手が届かなくたって、大したことではない。特売の発泡酒だって安いなりに美味しいし、誰かが手間暇をかけ開発した努力の結晶であることに変わりはないのだ。

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それ、便利ですか [その他]

jidou_tearai_sekken.png公衆トイレなどの洗面台は、センサ感応式で水が出る装置がすっかり一般的になった。接触部がないのは衛生面や感染対策ではメリットかもしれないが、ときどき感度が悪いヤツに当たると厄介だ。トイレの洗面台で掌を宙にかざし指揮者のように動かす怪しい人物がいたら、水を出せなくて困っている人だ。感応スポットが蛇口に近すぎて水流に手がうまく当たらないときは、まず左手をかざして右手を洗い、次に右手をかざしながら左手を洗う羽目になる。これって本当に便利なのか?

公衆トイレのセンサと言えば、便器に水が流れるスイッチも感応式の場合がある。用を済ませて立ち上がると自動的に流れる想定なのだと思うが、感度が良すぎるのか少し姿勢を変えただけでさっさと流してしまうトイレがある。早く出て行けと追い立てられているようで落ち着かない。そういうトイレは、いざ用が済んで流したいときに却って困る。センサーの前で手をかざしたり放したりしてみるが、一定時間座っていないとアクティベイトしない仕様のか、一向に反応しない。ふつうに「大」のレバーがあれば一発で解決するのだが、生半可自動化されているせいで不便なことこの上ない。

私たちは、かつて手動だった作業を自動化してくれる様々な装置に囲まれて暮らしている。そういった装置は本来生活の利便性に奉仕するために発明されたはずだが、実際には知らないうちに人間のほうが装置の都合に合わせている。必要な時に水が出なかったり、逆に必要でない時に流れ出したり、そんなとき私たちは機械の気まぐれに従う他なす術がない。オートメーション技術が普及した結果、人間が使う道具はいつの間にか人間より偉くなったようである。

海外出張で借りたレンタカーで、サポカーを初めて運転した。走行中ハンドルが軽く逆らうようにクイクイと反応し、並走車が近づくと警告音が鳴る。安全性が増すならそれで良いが、気難しいトイレのセンサとどこか似ていると思った時、ふと恐ろしくなった。ドライバーの生殺与奪の権利を握っている誰かが、車の中に棲んでいるような気がしたのである。

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AIの描く絵は創造か [その他]

ai_paint.pngひと月ほど前、米国コロラド州で催された絵画コンテストのデジタルアート部門優勝作品が、実はAIで描かれた絵だったということで話題になった。作者が用いたのはMidjourneyという画像生成AIで、希望のお題を文章で入力するとそれに相応しい絵の画像を出力してくれるということである。一枚の絵は最短1分で仕上がるそうだが、件の作者は満足のいく絵を得るまでに何百枚と試行錯誤したそうだから、それなりの手間はかけたわけだ。

それって反則だろ、という批判はもちろんあり得るわけだが、より本質的な問題提起は「AIの創造性は人間を超えるのか」という疑問である。しかし創造性とはそもそも何なのか? AIが絵を描くというと、ベレー帽をかぶったアンドロイドが絵筆をふるうような光景を目に浮かべる人もいるかもしれないが、もちろんそうではない。膨大なデータベースから素材を取捨選択し、お題に近い構図で組み合わせたり加工したりして新しい画像を生み出す技術がMidjourneyである。作品の最終型はオリジナルだが、元々の素材は既成品だ。Midjourneyに限らずAIが描いたとされる絵が大抵、初めて見る美しい画だけどどこかで見たような既視感を与えるのは、そのせいだ。クリスチャン・ラッセンの絵を見て受ける印象に近い。

素材が借り物だったらクリエイティブと言えないかというと、必ずしもそうではない。芸術はもともと、コピーと創造の組み合わせでできている。100%コピーだったら剽窃だが、逆に100%創造では誰の琴線にも触れない。知ってるけど知らない、と思わせるバランスの妙が名人芸なのである。ポップスの楽曲のコード進行のほとんどはバッハの音楽で既に使い古されているが、それでも世代を超えて愛される唯一無二の名曲は今もたくさん生まれている。その意味では、Midjourneyが吐き出した画像をクリエイティブと呼んだって別に構わない。

ただAIそのものはツールに過ぎず、それを使うのは人間である。Midjourneyは注文生産を行う職人であって、発注する人間のアイディア次第で出来上がる作品は全く違う。素人が見てもゴッホの絵がゴッホだとすぐに判るのと違って、AIの画は変幻自在でないといけない。優れたAI技術はクリエイティブであり得るかもしれないが、ゴッホがゴッホでありピカソがピカソであるようなオリジナリティを発揮する余地はない。Midjourneyが絵を描けない人の想像力を可視化するツールだとするなら、ツール自体がオリジナリティを持ってしまうと、それはむしろ邪魔だからである。

『星新一賞』という理系文学賞があって、面白いことに「人間以外(人工知能等)の応募作品も受付けます」と応募規定に明記されている。実際に創作過程の一部にAIを使った作品が入賞したこともあるが、選考を勝ち抜いた作品は実際のところ大部分は人間が書いたそうだ。猿がイタズラにタイプライターを打ち続けて偶然シェイクスピアが生まれる可能性があるかという有名な仮説があるが、猿どころかAIが自ら物語を創作する日もまだ遠いようである。

物語の面白さとは何か、絵画が人を惹きつける魅力は何か、音楽が心を打つ理由は何か。誰もが日々経験していることばかりなのに、誰もそのわけを説明できない。AIは入力と出力の最短距離を見出す経験値のマシンに過ぎないから、芸術に夢中になる理由を私たち自身がうまくAIに教えられない以上、AIが主体的に独創性を発揮することもまずあり得ない。

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300号記事 [その他]

この記事で300本目のブログ記事となる。前回のキリ番200号が昨年の9月18日付だったので、ほぼ一年前だ。今読み返すと、200号記事はこういう期待で締めくくっていた。
300回目のコラムに到達する(と思われる)来年の今頃は、どんな世界になっているだろう。ウイルスが消えてなくなるとは思わないが、ワクチンも治療薬も適宜ルーチン化され、外食とか旅行とか当たり前のことが当たり前にできる世の中に戻っていてほしい。
治療薬のルーチン化はまだ遠そうだが、一年前に比べると外食も旅行もかなりコロナ前に近づいてきた。コロナが終息したからではない。つまるところ皆コロナから逃げ回るのにいい加減疲れたのである。欧米に比べると日本のマスク着用率の高さは今も際立つが、にもかかわらず第7波で世界最悪クラスの新規感染者数を経験した。「コロナ優等生」と言われた日本のアドバンテージが消滅した今、かつて囁かれていたファクターXももはや過去の伝説と化したようである。

昨年10月に書いた『第5波は結局何だったのか』というコラムが、なぜか今もじわじわとアクセス数を稼いでいる。東京オリンピック開会直前にピークを迎えた第5波は、開催準備に海外から訪れた裏方やメディアが持ち込んだのではないか、という仮説を提示した。半ば洒落のつもりだったが、東京五輪が引き金でデルタ株の亜種が世界に広がったのではという研究が一月ほど前に発表されたので、あながち的外れでもなかったのかもしれない。

過去100回で一番アクセスを稼いだのは、『日本に来られない留学生の話』であった。本来であればとっくに入国許可が出ているはずの留学生に、一年以上にわたり門戸を閉ざした日本政府の対応に批判が高まっていた頃の話である。さすがに留学生の足止め問題は解決されたが、一般外国人の入国は(段階的に緩和されているとは言え)今も入国者数制限やビザ免除停止など制約が残っている。何となくずるずる鎖国をしていたいというメンタルは、江戸時代から綿々と受け継がれてきた日本社会のミームなのか。

mask_hazusu_man.pngとは言えコロナ鎖国が長びいているのは日本だけではない。中国は今も入国後の隔離を含む厳しい水際対策を課している。ゼロコロナ政策に出口がないことは今や明白で、日本は遅ればせながら長く暗いトンネルから脱しつつある。残る課題は一億総マスク生活をいつまで続けるかだが、欧米圏がパンデミックから一抜けしつつある昨今、ひとつ確かなことがある。コロナが終わった時にマスクを外せるのではなくて、マスクを外した時にコロナが終わるのである。その踏ん切りがつかない限り、私たちが以前のようにマスクを気にせず街を歩ける日は永遠に来ないだろう。

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72時間 [その他]

figure_question.png水際対策の緩和策として、現地出発72時間以内の条件を満たすのであれば日本出国前に取得した陰性証明も有効とすると厚労省が発表したそうである。笑ってしまった。

出国から帰国便の出発まで3日未満の短期海外旅行の場合、海外で陽性になって足止めをくらうリスクがなくなった。それはそれでいいのだが、海外からのウイルス流入を防ぐ本来の目的を自己否定したことになる。逆にもし出国前の検査で陽性になったら必然的に海外旅行は中止だから、単に日本人が国内で自己隔離に入る普通のプロセスと何も変わらない。どちらに転んでも、もはや「水際対策」でも何でもない。いったい何がやりたいんだろう?

河野太郎氏がツイッターで「これが有効ならば、そもそも帰国時の検査は不要ではないか」と呟いたそうだ。まったく同感である。

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完・ちょっとした不測の事態 [その他]

medical_koutai_kensa2_negative.png晴れて帰国することができた。PCR陽性が出て顔から血の気が引いた日(実際一時的に貧血を起こした)の二日後と三日後にはいずれも抗原キットで陰性、四日目に満を持して改めてNAATを受けやはり陰性だった。いったい何だったんだろう。

国立感染研によれば(詳細)、無症状感染者は8日を超えるとウイルスの排出はなくなり、これが無症状陽性の場合の隔離期間が7日とされた根拠になっている。ただしPCRの結果自体は、検査日から8日を過ぎる時点でも依然として8割以上が陽性判定である。自己隔離中にこの情報を見たときはゾッとしたのだが、結果的には陽性が陰性に戻るまでほんの数日も要しなかった自分はもともと体内のウイルス量が検出限界ぎりぎりだったのか(それとも偽陽性だったのか)。無症状の場合、濃厚接触者とか帰国前とか理由がない限り検査の機会がないので、統計には多分に選択バイアスがあり得る。無症状感染者がクラスターの起点となる事例もあるようで、自覚症状がなくても相当量のウイルスを保持している場合はあるようだが、その一方でほとんど感染力もないプチ感染者が相当数社会に浸透している可能性もある。気付かないうちにコロナに薄くかかっていつの間にか治っている人はたくさんいるかも知れない。

第7波を迎えた日本は、人口当たり新規感染者数で欧米の主要諸国を軒並み抜いている。これは第6波以前とは大きく異なる特徴である。水際対策を緩和した欧米諸国より、未だに陰性証明がないと誰も入国できない日本の感染状況がむしろ悪化した原因は何か?ワクチンの感染抑止力が各種オミクロンに対して限界があるのだとすれば、オミクロンに対する集団免疫は感染爆発でしか達成できないということかもしれない(私がアメリカで会った海外の同僚は感染経験者が大勢いた)。そうだとすれば、現在の第7波は遅ればせながら日本にやって来た集団免疫獲得の機会ということになる。感染カーブはぼちぼちピークを越えそうな様相を示しているので、9月くらいにはだいぶ状況が落ち着いていることを期待したい。

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続・ちょっとした不測の事態 [その他]

jitaku_taiki_man.png海外滞在中にコロナ陽性になってしばらく帰れなくなった話は、今や珍しくない。現時点ではある程度の水際対策は必要だろうが、問題はその「ある程度」が適切に設定されているかどうか(およびそれが適切かどうかを柔軟に判断する国のメカニズムが機能しているか)ではないか。

日本政府は入国に際し陰性証明をとる検査法と検体の種類をかなり限定している。抗原定性検査(簡易キット)は認められていない。国内で無症状者の感染を判定するための推奨基準を援用しているようである。ただ、国内で陽性が判明し自己隔離するのと、国外で感染し帰国を拒否されるのでは、いろいろ訳が違う。

NAAT(PCR検査など)は高感度すぎて感染リスク消滅後も陽性が出続けることがあり、CDCのサイトにNAATの欠点としてこんな指摘がある。
A positive NAAT diagnostic test should not be repeated within 90 days, because people may continue to have detectable RNA after risk of transmission has passed
短期間にNAATを繰り返し使って陽性診断するなとはっきり書いてある。しかし現在の日本政府の水際対策では、帰国前に陽性判定が出てしまった人はこの「やるな」をやらないと帰れない(NAATのほかに抗原定「量」検査も認められているが、これが受けられる検査施設は圧倒的に少ない)。

結果として、症状が回復しているのに長期にわたり国外に足止めを食らうケースが続出しているようだ。回復後も陰性にならない場合は領事レターという特例措置が存在することを先日知ったが、NAATによるスクリーニングが入国条件に適切かというそもそも論は置き去りにされている感がある。NAATは検査費が高価で、1‐2日結果が待てるならまだしも、慌ただしい出張の中では短時間で結果が出るさらに高価な検査法(アメリカの場合$100は下らない)に頼らざるを得ない。陰性になるまでNAATを繰り返し受けさせられるのは、科学的にもコスト的にも非合理だ。抗原定性検査であれば、安価で繰り返し検査しやすい。もちろん感度は劣るが、明らかに感染している人は簡易キットでも陽性になるので、一定数の見逃しがあってもリスク低減には充分有効なはずだ。一定数の見逃しすら許容しない原理主義的なゼロリスク水際対策は、オミクロン時代にはそもそも無意味である。

困難に直面している自国民を国外に締め出すというのは、国家として異常である。もちろん感染症の特性を考えると「ある程度は」やむを得ないが、ゾンビを締め出すために逃げ遅れた家族もろとも鼻先でピシャリとドアを閉めるような冷酷な対策をいつまで続けるのだろうか。欧州も米国も、ワクチン接種済みを前提として入国前検査を既に廃止した。絶えず状況の変化を見ながら制度の異常性と水際対策の落としどころを探っていかなければならないはずが、そのあたりの知恵と意欲が日本政府には欠落してるように見える。

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ちょっとした不測の事態 [その他]

前回のブログの末尾で、出張先でコロナ感染しないよう気を引き締めたい、と書いた。結果的には、少々気を引き締めたくらいではオミクロンは防げない、ということを身をもって知った。日本から来た他の参加者数名とともに、出張計画が思わぬ延長戦に突入している。世界中から200人近い研究者が集まる会議で日本の関係者ばかり感染したのは不思議だが、実際には感染した場合に「判明せざるをえない」のが、帰国前検査が必須の国から来た人だけだいうことである。私は発熱なし咳なし鼻水なしのまったく無症状で、検査の必要がなければ何も知らずに時が過ぎていただろう。

とりあえずは判明翌日から5日間ホテルで待機する(米国CDCルール)。無症状でも5日では陰性にならないケースは少なくないようなので、仕切り直しの可能性も否定できない。旅程変更に伴うもろもろの事務作業はや用務代行の調整など、家族や同僚にいろいろな負担や迷惑をかけてしまった。とにかく気が滅入る状況ではあるが、必ずしも悪いことばかりではなかった、と言うことを今日は書きたい(諸対応で疲労困憊したおかげでようやく時差ボケが吹っ飛び熟睡できたこともその一つだ)。

一番印象的だったのは、「コロナ先進国」である欧米圏の人たちが見せるある種のおおらかさである。日本はコロナにかかれば腫れ物に触るように社会から隔離される悲壮感がまだ消えていない。こちらでももちろん一定の隔離ルールはあるが、そのあいだも人目を避けて籠っている必要は必ずしもない。昨日はもともと5人程度でビジネスディナーの予定であり、私が事情を説明して辞退したら、しばらくして「17:30に会議場の外に来い」と連絡が来た。彼らが夕食前にわざわざ一時間以上の時間を割いてくれ、普段はマスクをしない欧米人が揃ってマスクを着用し、風通しの良いパティオで飲食抜きの討議の場を作ってくれたのである。下っ端の私抜きのミーティングでも大した支障はなかったはずだから、表向きは誰も何も言わなかったが、背後に漂う深い気遣いに胸が熱くなった。

tewotsunagu.png会期中に接触のあった同僚たちに連絡したところ、その反応が人それぞれで楽しかった。大変だろうけどなるべく早く帰れるといいねという返信が殺到し、車を出せる人からは買い物で必要なものはないかと申し出があったり、中には「たとえリスクがあっても君と会話できてよかったよ」とわざわざ書き添えてくれる人もいた。上述の経緯により会議場の外で待っていたときは、事情を知る仲間が通り過ぎるたびに次から次へ話しかけてくれた。過去に欧州第一波とオミクロンで二回感染を経験した女性は、私の姿を見つけるなり歩み寄って来て「おめでとう!ついに!あなたも!」ととても嬉しそうな顔をした。何度も泣きそうなくらいに胸が詰まった。

コロナ感染して良かったとは全く思わないが、感染しなければ触れる機会のなかった人の優しさにたくさん出会えたことは間違いない。これからまだいろいろ困難はありそうだが、何とかやっていけそうな気がする。

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