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ある州知事の物語 [海外文化]

今回の記事は、旧シリーズ『コロラドの☆は歌うか』からの転載である。旧サイト運用で利用していたSo-netの「U-Page+」サービスが終了してしまったので、今後折に触れこのブログで少しずつ復刻掲載しようと考えている(単なるネタ切れ対策ではというご指摘は聞かなったことにする)。
戦時の困難な情勢にあって、社会に立ち込める憎悪に一人立ち向かい信念を貫いた政治家の物語である。これを書いた2004年はイラク戦争が混迷を深めつつあった時期であり、当時のきな臭い閉塞感が今日の状況と少し重なる。



コロラド・スプリングスから西に車で一時間ほど入った山間部に、クリップル・クリークという小さな町がある。現在では数軒のカジノが表通りに並ぶこじんまりとした歓楽街に過ぎないが、かつて金鉱を中心に栄えたゴールド・ラッシュの名残をかろうじて留めている。

当時の熱気がまだ余韻を引いていた20世紀初頭のクリップル・クリークに、ラルフ・ローレンス・カーという一人の少年がいた。当時の彼について知る手がかりは、今では全く残っていない。しかし、若き日のラルフがこの町で経験した何かが、やがて彼を類い稀な州知事へと導く礎を築くことになる。
小さな町で育った私は、そこで人種偏見の憎悪がもたらす恥と不名誉を知りました。成長するにつれ、私は人種偏見を軽蔑するようになりました。なぜならそれは結局私たち全員の幸福を脅かすからです。

コロラド大学を卒業したラルフ・カーは弁護士としてキャリアを踏み出した。行政機関の顧問弁護士を歴任した後、1939年コロラド州知事選に共和党の候補者として出馬する。民主党主導で全国を席巻していたニューディール旋風の中、彼は逆風に立ち向かい見事当選した。州知事としてラルフは行政機構の立て直しを指揮し、官僚システムの効率化に貢献した数少ないコロラド州知事の一人として認められた。が、それは彼が残すことになる偉業のほんの一部に過ぎない。

1941年12月、日本軍の真珠湾攻撃を機に太平洋戦争が勃発し、たちまち激しい反日感情が全米を揺るがした。ところが真珠湾攻撃の早3日後、ラルフ・カー州知事はラジオで公然と日系アメリカ人を擁護した。
仲間や国家に対する想いの強さを、祖先のルーツがどこかという理由で決め付けてはいけません。
連邦政府は西海岸に住んでいた日系人の土地や財産を没収し、強制収容所へ移住を命じたが、ラルフは日系人を捕虜のように扱うことにきっぱりと反対した。コロラドに住む日系人に対する制裁措置は一切認めようとしなかった。また連邦政府が内陸部の10州に収容所の用地提供を働きかけたとき、その要請を積極的に受諾した唯一の州がコロラドだった。他州が軒並み日系人を締め出そうとしていた最中、ラルフだけが進んで彼らに門戸を開いたのである。

fence.png日系人に対するバッシングはコロラドにおいても例外ではなかった。ハイウエイ沿いには「ジャップは出ていけ」と書かれた看板が並んだ。そんな世相の中、ラルフ・カー州知事の姿勢は人々の反発と困惑を招いたが、彼は自分の信条をいささかたりとも曲げなかった。ラルフは、あらゆる日系人は他のアメリカ市民と同様の権利を保証されるべきだと繰り返し主張した。西海岸で土地と財産を奪われた日系人を受け入れるべくコロラド州南東部に建設された収容所は、当時の状況が許す範囲で住人の尊厳が認められていたという。
収容所に一人、隔離政策のためカリフォルニア大学を道半ばで諦めて来た女性がいた。ラルフは彼女を自宅で家政婦として雇い、彼女はその傍らデンバー大学で学位を取ることができた。彼女が卒業していくと、彼は収容所にいた別の日系人を雇った。

ラルフの隣人は、同じ屋根の下に日本人を迎え入れてどうして安眠できるのかと首をひねったが、ラルフにとって敵国人種の肌の色は何ら脅威ではなかった。「黄禍」を恐れなかった彼は、同時に世論から孤立する政治的リスクにも動じなかった。
もし私を正しいと思うなら、日系人を迫害するのはやめることです。もし私が間違っていると考えるなら、次の選挙で私を葬り去るがいいでしょう。
だが深まりゆく戦争の影の中で、人々の取った選択肢は明白だった。上院選に立候補したラルフは、日系人の排斥を主張したエド・ジョンソンに大敗を喫する。ラルフは人々を憎悪と差別に駆り立てた時代の狂気に一人で立ち向かい、敗れた。州知事就任からたった4年で政界から退いた彼は、その後二度と表舞台に返り咲くことはなかった。
1945年に終戦を迎え、コロラドの収容所にいた日系人は次々と西海岸に帰って行った。同年10月、その最後の一人がゲートを後にすると同時に収容所は閉鎖され、忌まわしい戦争と弾圧の記憶とともに永遠に封印された。

ラルフ・カーは一貫して日系人の市民権を擁護し続け、その引き換えに政界と人々の記憶から消し去られた。だが、コロラドに住む日系人は彼と彼の功績を決して忘れなかった。1976年、ラルフ・カーの胸像がデンバー・ダウンタウンの一角に立てられた。ダウンタウンの北のはずれ、サクラ・スクエアと呼ばれる小さな日本人街の中ほどで、ラルフの像はうつろいゆく時代の空気を今も静かに見据えている。

※初出『コロラドの☆は歌うか』2004年8月13日付

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