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アナログレコードの話 [音楽]

1980年代にCDが普及し始めて以来、アナログレコードの市場規模は(一部マニアの根強い支持は別にして)縮小の一途を辿ってきた。ところが過去10年ほど、レコードの生産数が再び上昇しているそうである。音楽ソフト全体の売上が伸び悩む昨今、興味深い傾向だ。

record_player.png私が小さかった頃は、まだアナログレコード全盛期だった。記憶にある限り初めて出会ったレコードは『およげ!たいやきくん』のシングルで、B面に『いっぽんでもにんじん』が入っていた。私と同世代なら、今でも空でこの2曲を歌える人は多いのではないか。父の趣味で自宅にはそこそこ本格的なオーディオ設備が整っており、書斎の棚にはクラシック音楽のLPレコードが所狭しと並んでいた。父の嗜好は概ね前期ロマン派以前に留まっていたが、名盤と評判が立つと何故か好きでもないはずの近現代物も買って来て、すぐに棚の肥やしになった。しかしその気まぐれが、後の私にストラヴィンスキーとかショスタコーヴィチとか武満徹など禁断の回廊へ扉を開いてくれたのである。YouTubeはもちろん、インターネットすら影も形もない時代だったことは言うまでもない。

LPレコードは詰め込んでも片面30分程度が限界で、とくにクラシックは一曲が長いので収まりきらない。交響曲やオペラはたいてい楽章やアリアの切れ目があるが、中には途切れなく何十分と続く音楽もある。ストラヴィンスキーの『火の鳥』全曲版は、綿々と休みなく50分近くを要する。当時自宅にあった小澤征爾/ボストン響のLPでは、『王女たちのロンド』の終わり近くハープが上行音型でオーボエにつなぐフレーズを一旦ハープだけで終わらせてA面を閉じ、B面はその直前からフェードインして後半につないでいた(記憶が正しければ)。場合によってはスコアすら改変せざるを得ない苦労が、アナログレコードの宿命だったのである。

CDは連続して70分以上入り、再生も簡単だし保存もかさばらないからメリットが多い。一方で、CDは再生音が不自然だとかアナログレコードのほうが音がいいといった懐古派のぼやきもくすぶり続けた。CDは可聴域より高周波の成分はサンプリングしない。だから超可聴域を排除しないアナログレコードのほうが音質が優れているという俗説が、まことしやかに広まった。しかし同じレコードでもスピーカーやアンプやカートリッジ(レコード針とその周りのパーツ)など再生装置次第で音はぜんぜん違うので、音質に関してはレコードかCDかというメディアの二者択一論に意味があるとは思えない。

レコードをジャケットからうやうやしく取り出し、ターンテーブルにそっと載せ、見えるか見えないかの極細の溝を狙って針を慎重に置く。アナログレコードを聴くには、厳粛で少々面倒くさい儀式が伴う。サブスク世代の若者達の眼に映るアナログレコードの世界とは、スタバの抹茶ラテで育った現代っ子が格式高い茶会に招かれるようなものかもしれない。どちらのお茶がより美味しいか、どちらがより良い音が出るのか、それはたぶんあまり本質ではない。敢えて一手間も二手間もかけて、まず心を整える。そんなふうに正座して向き合う音楽の形が、楽曲データがタップ(クリック)一つで手に入る時代にあって、逆に新鮮で輝いて見えるのだろうか。

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ショパン・コンクール [音楽]

music_piano.pngショパン・コンクールで、反田恭平さんが2位の快挙を果たした。反田さんは4位入賞の小林愛実さんと幼馴染で、同じピアノ教室に通っていたこともあるというから、今頃この教室の門を叩く人が殺到しているかも知れない。反田さんの名前はもともと聞いたことがあった。YouTubeでAIが引っ張ってくるオススメに、彼のチャンネルがよく混じっていたのである。自己プロデュースにも長けた人だなあと思っていたが、その気負いすぎないおおらかさに若い世代ならではの新しい才能を感じる。

ショパン・コンクールといえば、求道的なピアニストたちが息詰まる戦いを繰り広げるところだと思っていた。弱冠18歳のマウリツィオ・ポリーニが優勝した1960年は、審査委員長だったアルトゥール・ルビンシュタインが「われわれ審査員の誰よりも彼の方がうまい」と激賞したという。優勝後コンサートツアーの依頼は引きも切らなかったはずだが、ショパン・コンクール直後から何年もの間、ポリーニは本格的な演奏活動を控えピアノ鍛錬の日々に没頭する。最高峰の栄誉を手にしながら自身の技術と音楽に満足できなかったのか、巨大な音楽マーケットに飲み込まれることを恐れた防衛手段だったのか、いずれにせよ山奥で修行を積む修道僧のようだ。

ショパン・コンクールの歴史で有名な話と言えば、何と言っても「ポゴレリッチ事件」だ。1980年の予選選考会で、当時22歳のイーヴォ・ポゴレリチの評価をめぐり、審査委員の意見が最高点と最低点の真っ二つに割れた。とてつもなく個性的な解釈に貫かれた、誰も聴いたことのないショパン。結果としてポゴレリッチはファイナル進出を逃し、その決定に抗議したマルタ・アルゲリッチは審査員を辞めてしまった。ショパン・コンクールで入賞「しなかった」ことで名声を手にしたポゴレリッチは、60代になった今も孤高の個性派ピアニストとしてファンを魅了し続けている。

ちなみにポゴレリッチ事件の年にショパン・コンクールを征したダン・タイ・ソンもまた、正統派ピアニストとして今も活躍している。聴衆にとっては、オリンピックのように色の違うメダルで演奏家を差別化するより、タイプの違う才能が次々と発掘され、多彩な解釈の魅力に触れる機会が増すならばそれに勝る幸福はない。誰かに他の誰かより高い点を付けるコンクールの宿命をゲリラ的に否定した「ポゴレリッチ事件」のおかげで、世界はショパンのさまざまな横顔を知る機会を得た。

反田さんは長髪を後ろで束ねるクラシックピアニストらしからぬ風貌(帰国前の小室圭さんを少し思い起こす)だが、現地の人に「サムライ」と記憶してもらうための確信犯だそうだ。やはり自己プロデュースの上手な人だと感心したが、日本人が異文化の本場で認められるには人知れぬ苦労が不可欠ということかも知れない。若き日のポリーニやポゴレリッチほどストイックに尖っていなくとも、彼もまた類稀な「求道者」なのだと思う。

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音楽室のJ-Pop [音楽]

gassyou_all.png一年後から高校の教科が再編されるとかで、新しい教科書の内容が明らかになった。プログラミングを習う「情報I」なる必修科目が新設されるらしい。それよりも興味を惹かれたのは音楽の教科書で、ある出版社は米津玄師の『Lemon』を譜面入りで掲載しているそうである。私が中高生だった頃は、音楽の授業といえば『浜辺の歌』に始まり『大地讃頌』で終わるような保守本流であり、J-Popが音楽室に侵入するなど想像も及ばなかった。隔世の感がある。

個人的には『Lemon』は米津玄師の楽曲中で2番目くらいに好きだが、教室向きかと考えるとよくわからない。短調で始まって長調で終わるので、楽理としてはセオリーからやや外れている。そもそもかなり暗く内向的な歌詞だから、これをクラスみんなで斉唱する光景を思い浮かべると、ちょっと痛々しい。ちなみに私が一番お気に入りの米津作品は『打上花火』だ。5音音階ベースの物憂げで美しい米津節が基調ながら、女声(DAOKO)とのデュオという特色も手伝って、音楽が変化に富んで開放感がある。でも実は『打上花火』はイントロ・Aメロからサビに至るまで、C♭ → D♭ → E♭m7 → G♭というたった4つのコード進行の繰り返しでほぼ成立している。インストのパートとか何だか往年のスティーヴ・ライヒっぽいし、ミニマル・ミュージックの遠いこだまも聴こえる。

どうせカリキュラムを再編するなら、別の教科をまたいだコラボでもやってみてはどうだろう。YOASOBIは曲が小説とタイアップしているから、国語の授業と連携できそうではないか。ただユニット名が夜遊びでは、教育的指導が入ってNGかも知れない。公民は現代社会に代わって、新たに「公共」という科目ができるそうだ。趣旨がよく飲み込めないが、人間と社会のあり方を討論も踏まえつつ主体的に学ぶ場らしい。それなら、椎名林檎と宇多田ヒカルのコラボ曲『浪漫と算盤』から、出だしの一節を教材にいかがか?音楽は椎名林檎のレトロなジャズ趣味がまろやかに熟成した絶品だが、そこに載せる彼女の歌詞がまるで漢詩のようで度肝を抜かれる。


主義を以って利益を成した場合は 商いが食い扶持以上の意味を宿す
義務と権利双方重んじつつ飽く迄 両者割合は有耶無耶にしていたい

アラフォー世代を代表するこの天才二人が意気投合するだけで奇跡のようだが、お二人は5年くらい前にも『二時間だけのバカンス』で共演している。『にじバカ』は宇多田ヒカルからの楽曲提供で、とてもチャーミングな逸品だが歌詞の内容が社会の規範からちょっぴり自由なので、たぶん教科書検定は通らないだろう。

ところで、高校で音楽を教える意味って何だろう?今さらリコーダーやピアニカの吹き方を習うわけではあるまい。数学や理科と違って、筋道だったロジックや正答もない。音大に行くのでなければ、受験にも必要ない。でも、古文で習った文法は人生で二度と思い出さないかも知れないけれど、音楽のない世界は想像もできない。RADWIMPSに『正解』という歌があって、教室と違い正解のない社会へ船出する若者を暖かく見送る、野田洋次郎らしい透明感のあるバラードだ。『Lemon』よりも高校生の感性にストンと落ちるかも知れない。つまるところ学校の音楽室は、机に向かってノートを取っても手に入らない普遍的で大切なものがあることを、心で学ぶ場ということなんじゃないか。

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グリゴリー・ソコロフ [音楽]

music_gakufu_open.png10年以上前になるが、フランクフルトで開催されたワークショップに招かれて参加した折、仕事を終えた夜に現地のホールでピアノ・リサイタルを聴いた。しがない研究者の端くれにとって異例のVIP待遇なのだが、ワークショップ主催者が参加者全員を招待してくれたのである。プログラムを見ると聞き覚えのないピアニスト(ロシア系と思われる名前)で、ステージに現れたのは恰幅の良い中年紳士だった。一つ一つの音を慈しむように弾く素敵なピアニストで、2時間程があっという間の素晴らしいコンサートで嬉しくなった。中でも頭に焼き付いているのはモーツァルトのヘ長調ソナタK332で、とくに第2楽章の透き通るような美しさが帰国後も頭から離れない。古い楽譜を棚の奥から引っ張り出し、憑かれたように曲をさらった。一度きりのリサイタルで、そこまで発奮させる演奏に巡り会えることは滅多にない。

当時のプログラムが手元に残っていないので、あのピアニストの名を思い出す術はない。恰幅の良いロシア系ピアニストなら無数にいそうなので、これだけでは特定する手掛かりにならない。近頃私のマイブーム一位に躍り出たグリゴリー・ソコロフ(Grigory Sokolov)も、立派な胴回りで貫禄たっぷりだ。ソコロフは1966年に弱冠16歳でチャイコフスキー・コンクールを征し彗星のようにデビューしたが、鉄のカーテンのこちら側にとっては長らく幻のピアニストだった。ペレストロイカ以降は、欧州を中心に西側でも演奏活動を本格展開するようになった。しかしご本人が飛行機嫌いだそうで過去30年一度も来日公演が実現していない上、スタジオ録音もお嫌いでなかなか演奏に触れる機会がない。

幸い5年くらい前にドイツ・グラモフォンがついにソコロフと契約にこぎ付け、過去のライブ音源が少しずつ出回り始めている。ソコロフのピアノはどちらかというと遅めのテンポが特徴で、消え入りそうな静謐さもほとばしる激情も他のピアニストと明らかに違う独特の呼吸が息付き、しかしその全てがこの上ない音楽的必然性と完成度で迫ってくる。世界最高の現役ピアニストの一人としてコアなファンは多いが、無知な私は最近ようやくソコロフをYouTubeで発見し、たちまち虜になってしまった次第である。

グラモフォンのソコロフ・シリーズの一つに、2008年ザルツブルクで録られたライブCDがある。曲目リストを見ると、あのモーツァルトのK332も入っている。あれ?2008年といえば、例のワークショップがあった年だ。恰幅の良い中年紳士、ロシア系の名前。まさかとは思うが、私がフランクフルトで聴いたあのピアニストは、ソコロフその人だったのではないか?実際にザルツブルクの録音を聴くと、落ち着いたテンポで魔法のように紡ぎ出される音楽が、じわじわと記憶をくすぐる。半信半疑でググってみると、何とワークショップ開催週半ばの2008年3月5日、フランクフルトの旧オペラ座でソコロフが同じモーツァルトを弾いた記録があるではないか!私があのとき名前すら知らずに聴いて感激したピアニストは、世界中のファンがいつか生演奏に立ち会いたいと熱望する、生ける伝説だったのである。

ちょっとマニアック過ぎて伝わらなかったかも知れない。例えるなら、幼いころキャッチボールに付き合ってくれた近所のお兄さんが実は中学時代のイチローだったとか、むかし落とした財布を拾って届けてくれた女性がブレイク前のガッキーだったとか、ありえない出会いの真相をずいぶん後になって知った衝撃を妄想してほしい。ソコロフを生で聴きたくても機会に恵まれず悶々とする日本のファンに、彼のリサイタルに無自覚に居合わせたなどと告白しようものなら、きっと首を絞められるに違いない。

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プロはアマのために、アマはプロのために [音楽]

正月番組の金字塔『芸能人格付けチェック』で、吹奏楽のプロとアマチュアを聴き分ける企画がある。suisougaku.png今年のアマチュア代表で出演した都立片倉高校吹奏楽部の上手さに仰天したが(私は彼らの方がプロかと思った)、昔から吹奏楽コンクールの強豪校は恐ろしくレベルが高い。吹奏楽はオーケストラと比べ個人技に頼るソロ要素が薄く、アンサンブルの精度を極めれば普通科の中高生でもプロとほぼ互角の技術水準まで迫れるということかも知れない。スウェアリンジェン作曲『インヴィクタ』という吹奏楽曲があって、技術的に平易で初心者でも乗れるわりにカッコよく映えるオイシイ名曲として、ブラスバンド経験者ならたぶん一度は演っただろう。

もちろんアマチュアの大半はプロの足元にも及ばないと思うが、コンクールの上位常連者となるといくらか話は違う。コンクールで審査する側は専門家なので、アマチュアと言えどプロの耳を唸らせるレベルを徹底的に追求する。一方、プロの音楽家はチケット代を払って聴きに来るファンを満足させることが仕事で、コンクールとは着地点が違う。トップクラスのアマはプロに評価されるため、プロはアマチュアの心をつかむため、それぞれ音楽に磨きをかけるのであって、極論を言えば弾き手と聴き手はプロ・アマ逆転しているのだ。『格付けチェック』のように一曲の一部分だけを切り取って比べたとき、そのどこにアマチュアらしさやプロらしさが滲み出るのか、考え出すと一筋縄ではいかない問題である。

フィギュアスケート界はさらに特殊で、私たちが名前を知っている花形スケーターはほとんどトップクラスの「アマチュア」だ。グランプリシリーズとか競技大会に出場する選手は(参加規定上)みなアマチュアで、フィギュアのプロとはアイスショーなどで活躍するスケーターである。競技人生を終えたアマチュア選手がプロに転向することも多いが、今の羽生結弦より技術力の高いプロのスケーターは、たぶん世界に一人もいないだろう。プロのレベルが低いということではもちろんなくて、滑る目的が違うのである。アマチュアはプロの目にしかわからない回転数のジャンプにしのぎを削り、プロはエンタテイメントの世界でギャラリーを魅了する。その意味では、吹奏楽と似ている。

大学は学位審査のシーズンが始まっている。今年度末に修士を修了する学生たちは、修士論文を仕上げつつプレゼンのリハーサルを何度もやって発表会に備える。研究の完成度や理解度はさておき、プレゼンは各研究室で相当に鍛えられているなあと感心することが多い。これが学界における「プロに審査されるアマチュア」が見せる本気度なのかなと思う。自分が学会前にここまでプレゼンを磨き上げていたかと振り返ると、反省も多い。

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紅白明暗 [音楽]

audience_penlight.png紅白歌合戦をじっくり見なくなって久しい。1960年代や70年代は視聴率60%から70%は下回らない鉄板の人気番組だったが、80年代後半に数字が急落して以降年々じりじりと下がり続け、近年は40%を切ることも多い。それでも、デビュー後間もないミュージシャンにとって紅白出場の機会を得る栄誉とは、新人作家が芥川賞をとるような特別の輝きを未だに放っているらしい。今年も紅白出場歌手が発表された直後は、当落を巡りひとしきり巷がざわついたようである。

AKBの落選ほど話題になっていないが、ともに昨年初出場だった髭男とKing Gnuが明暗を分けたことが、ファンの間で論議を呼んだようである。いずれも男性4人のグループで世代が近く、流行りはじめた時期もかぶっているのでよく比較される。でも、音楽的には似ても似つかないバンドである。髭男の爽やかで真っ直ぐな音楽はとても心地よいが、40代後半のひねくれたオッサンには眩しすぎて少々こそばゆい。King Gnuの曲に通底する屈折したほの暗さが、むしろ心に馴染む。『三文小説』などサビの旋律だけ取り出せばバッハのフーガにでも馴染みそうなくらいクラシカルだが、端正で美しいメロディーを暗く爆発的な情念に乗せるセンスと熱量にしびれる。『白日』を超える名曲だと思うが、どのみち紅白の浮かれたムードには馴染まないかも知れない。

紅白人気が衰退の一途を辿る背後には、世相の変化がもたらす不可避の要素は確かにあるだろう。家族団欒の場ですら親子それぞれスマホの画面にチラチラ目を落としかねない時代だから、大晦日の晩にテレビ以外の娯楽がなかった頃と同じ視聴率が期待できるはずもない。だが紅白人気の翳りは、スマホはもちろんガラケーもなかったバブル初期に既に顕著だった。視聴率低下の原因か結果かはわからないが、紅白製作側の意気込みが空回りするイタい企画が目立つようになる。ひところ小林幸子の華美な衣装が話題になると、何を思ったか白組には美川憲一を立て、毎年奇怪な衣装合戦を仕組んでいた。年々エスカレートして引くに引けなくなった挙句に衣装が舞台装置の一部と化してしまい、電飾の狭間に閉じ込められ身動きの取れない歌手が気の毒だった。『シン・ゴジラ』が話題を呼んだ2016年の紅白では、ゴジラを題材に大掛かりな演出を仕込んで大々的にすべった珍事件がなかったか?いつからか紅白といえば、見ている方が気恥ずかしくなる残念な企画の宝庫になってしまった。

ある頃から、NHKはお堅いイメージを払拭する自己改革を始めた気配がある。『LIFE!』のようにイメチェンが上手く実った番組もあるが、紅白は「軟派もいけるNHK」作戦がいつも裏目に出ている。間延びするつなぎコンテンツは程々にして、その一年を代表するヒット曲と万人受けしないけど内容の濃い曲を組み合わせて、もう少し音楽中心の構成で攻めてもいいんじゃないか。お金のかかったMステみたいな番組なるかも知れないが、誰に何を伝えたいのかよく分からない最近の紅白よりは、見応えがあるんじゃなかろうか。視聴率が30%代まで低下したとは言え、一般の番組がこの数字を取れれば驚異的と言える水準ではある。何だかんだ大晦日の晩に何となく紅白を流している家庭は今でも多いと思われるので、下手に媚を売ったりせず骨のある音楽番組を期待したい。

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オーケストラで弾きたい楽器 [音楽]

クラシックのコンサートのように客がずっと黙っている会場は、感染リスクが低いので過度に入場規制する必要はないんじゃないか、と以前書いた。実際、クラシックの演奏会や映画館など一部のイベントで満席まで客を入れられるよう、先週ガイドラインが緩和された。演奏する側は舞台上での密を避けるなど試行錯誤が続いているようだが、少しずつ以前の生活が戻りつつあるのは嬉しい。ただヨーロッパで感染が再び急拡大している国があるように、火種がいつどこに潜んでいるか分からず、相変わらず気が抜けないのが面倒だ。

music_cor_anglais.png学生の頃、友だちが乗るアマチュア・オケのコンサートをよく聴きに行った。自分もオケで弾きたいと羨ましく思っていたが、弦楽器も管楽器も何一つ満足に弾けない以上どうしようもない。トライアングルくらいなら叩けそうな・・・、と言うと打楽器をナメるなと叱られるだろうか。もし演奏の難度を度外視してオーケストラの楽器をどれか1つ弾けるようになれるとしたら、私はコーラングレ(Cor Anglais、通称アングレ)を吹いてみたい。

コーラングレはオーボエの仲間で、オーボエよりすこし低い音域をカバーする。どちらかと言うとマイナーな楽器で、『運命』とか『未完成』とか『悲愴』とか教科書に載りそうな超有名曲ではあまり耳にする機会がない。大半の管弦楽団ではオーボエ奏者が必要に応じコーラングレのパートを兼ねていると思うが、ベルリン・フィルにはDominik Wollenweberというアングレ専門の奏者がいる。たぶん出番の全くない舞台も多いと思うのだが、逆に選曲にアングレのパートがあるときは(ベルリン・フィルのコンサート・アーカイブで見かけた記憶の限りでは)彼の独壇場である。

コーラングレが活躍する一番有名な曲は、おそらくドヴォルザークの『新世界』二楽章だろうか。例の「遠き山に日は落ちて」の主題で、小学生のころ下校時にこの曲に見送られた人は多いはずだ。ロドリーゴ『アランフェス協奏曲』の第二楽章、ギターが爪弾く伴奏に乗せて有名なテーマを切なく歌いあげるのもアングレだ。低音の物憂げなダミ声から甘く透きとおった高音まで音色のスペクトルが幅広く、少し哀しげで息の長い旋律を奏でさせるとアングレの右に出る楽器はない。オーボエのような艶っぽさは控えめだが、酸いも辛いも噛み分けたような渋さと温かみが混じり合う響きがアングレの魅力だ。

ラヴェルのピアノ協奏曲ト長調第二楽章、ピアノのソロが奏でる夢のように美しいメロディーに続き、フルート、オーボエ、クラリネットと木管楽器が断片的に旋律を引き継いでいくが、再現部に入って主題をフルコーラスで任されるのは何を隠そうコーラングレだ。ここぞという聞かせどころで、木管の常連スター達を差し置き、大役を張るのである。シベリウスの『トゥオネラの白鳥』では、終始アングレのソロが音楽に物憂げな彩りを添える。ショスタコーヴィチはとりわけコーラングレに思い入れが強かったようで、彼の交響曲は印象的なアングレ・ソロの宝庫だ。とくに8番の一楽章と11番の最終楽章では、他のパートが軒並み弱奏ないし沈黙する中、アングレが3分超にわたりひとり切々と歌い続ける忘れがたいパッセージがある。登場の機会が少ない割に、聴きどころの美味しい役どころをさらっていくのは案外アングレだったりする。一般的な知名度は低いかも知れないが、少なからぬ作曲家がコーラングレに一目を置き、その独特な魅力を愛していたことはたぶん間違いない。

コーラングレは仏語で「英国の角笛」という意味で、英名はそのままイングリッシュ・ホルンという。この楽器の前身は、オーボエ・ダ・カッチャという主にドイツで普及したテナー・オーボエの一種と言われる。オーボエ・ダ・カッチャは大きく湾曲した独特の形状が特徴で、宗教画でよく描かれる天使が吹く角笛に似ていることがコーラングレの名の由来となった。しかし中世ドイツ語で「天使の」と「イギリスの」を意味する言葉はいずれもengellischで区別がつかず、勘違いのままイングリッシュ・ホルンという名が定着したという説が有力らしい。本来は「天使の角笛」なる高貴な名がついていたはずが、地味で
意味不明な誤訳に敢えて甘んじる慎み深さもまた、オーケストラの隠れた名脇役の品位に似つかわしい。

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心の同期 [音楽]

music_animal_cat_sax.pngしばらく前の話になるが、新日本フィルがテレワークで『パプリカ』を演奏した動画が話題を呼んだ。フルオーケストラが一人ひとり別撮りでアンサンブルをやったのは初めての試みだったと思うので、演奏も編集も大変だったかと苦労が忍ばれるが、その手作り感に一層感銘を受けたものである。オーケストラなのに選曲がクラシックでなく米津玄師だったのは、広い観客層の心をつかもうという意図もあったかと思うが、たぶんクラシックだったらこう上手くは行かなかったんじゃないか。ポップス系の場合パートごと別トラックに撮って後からミキシングするのは普通なので、ある意味でもともとテレワーク向きと言える。決まったビートの上にメロディーやハーモニーが乗っていくように音楽が作られているから、パートを一つずつかぶせていけばちゃんと曲になる。一方クラシックは(ラデツキーマーチとかを別にすれば)ビートに相当する要素は希薄で、ただ綿々とハーモニーを紡いでいくことで成立する曲も少なくない。リズムが音楽の呼吸に応じて微妙に揺らぐ味わいにこそ美学を追求するので、メトロノームのような演奏、と評されると相当辛辣な悪口になる。

オーケストラには(ふつう)指揮者がいる。機械的にブンブン腕を振る学校の合唱祭の指揮者とちがって、交響曲を振る指揮者は杖を振りかぶる魔法使いのようでかっこいい。今のような楽曲の解釈を担う職業指揮者が誕生したのは19世紀半ばだそうで、クラシックの歴史の中ではそれほど昔ではない。バロックの時代には長く重い棒でドンドン床を叩いて拍子を取る指揮がよく行われたそうで、ある意味でドラム音源の役割に近い。演奏中に誤って棒で自分の足を打ち抜いてしまい、その怪我から破傷風にやられ亡くなってしまった気の毒な音楽家もいた。現代の指揮は落命の危険はなくなったが、複雑なジェスチャーで音楽の間合いを取る高度なコミュニケーション技術を要求される。これをオンラインでやるのは、ちょっと難しい。もし新日本フィルが『パプリカ』の代わりにベートーヴェンの『運命』をテレワークでやっていたら、始めの4小節で挫折していたかも知れない。

室内楽は指揮者がいないので、オーケストラ以上に職人芸的な双方向コミュニケーションが欠かせない。阿吽の呼吸が培う絶妙な空気感が音楽の流れを左右するから、パートごとに音源を別撮りで重ねていく造り方は向いていない(できなくはないがあまり楽しくない)。Zoomなどネット会議ツールは会話には不自由しないが、リアルタイムでアンサンブルをやろうと思うと遅延がひどく、とても使えない(Zoomの遅延は0.14秒程度だそうである)。音楽向けにはYAMAHAがNetduettoという無料サービスを提供しており(つい最近新しくなってSyncroomと改名された)、遅延を最小限に抑えてネット越しに合奏ができる。便利で大変ありがたいツールなのだが、ネット環境とかオーディオ・インターフェースなどハード面の限界は超えられないので、どうにもならない僅かな遅延は微妙に早めに打鍵するといった奏者のアナログ的な脳内変換で補いようやく音楽が成立する。

音楽とは心の同期である。「新しい生活様式」で不自由な毎日の中、ネットの向こうにいる音楽仲間と心が通じたと思える瞬間は感無量だが、コンマ1秒の遅れすら音楽には致命的だと改めて実感することにもなった。生身の人間が求める心の同期は相当に高い時間精度が必要で、遠隔でアンサンブルをやるにはまだテクノロジーが完全に追いついていない。

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不自由の中の自由 [音楽]

animal_penguin_music_band.png新型コロナのせいで鬱々とした自粛生活を送る中、ときに思いがけず心躍るできごとがある。家にこもる私たちのために、世界中のミュージシャンが演奏をネット配信してくれるのもその一つだ。ベルリン・フィルのデジタルコンサートホールが期間限定で無料開放されたり、毎晩9時から小曽根真がライブを配信していたり。何と贅沢なひとときか。

小曽根さんは、もともと敬遠していたクラシックにある頃から面白さを見出したという。逆に、もともとクラシックでピアノを習い始めたがジャズ界で超一流になった人もいる。上原ひろみの見事に粒の揃った滝のようなスケール(音階)を聞くと、ああきっとハノンで鍛え抜かれた指だな、とどうでもいいことにまで感動する。同じく幼少期クラシックで育ったキース・ジャレットは、三つ子の魂百までというのか、バッハの「平均律」1巻・2巻に加えてショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ」までCDを出してしまった。どれも煌めく星々が織りなす小宇宙のごとき壮大な曲集で、この3セットを全曲録音した人は生粋のクラシック・ピアニストだって世界に数えるほどしかいない。

ビル・エヴァンスはドビュッシーやラヴェルの音楽に影響を受けたと言われる。そのラヴェルはというとアメリカを訪れて出会ったジャズにすっかり心酔し、2つのピアノ協奏曲(ト長調と左手コンチェルト)やヴァイオリン・ソナタなど晩年の作品にジャズの影響が色濃い。ラヴェルを敬愛していたガーシュウィンに作曲の教えを請われたとき、「一流のガーシュウィンたり得るあなたが、なぜ二流のラヴェルになろうとするのです?」と断った話はよく知られている。気の利いた社交辞令と見ることもできるが、ジャズ発祥の国の若き才能がほんとうに眩しかったのかも知れない。

ジャズの人がクラシックを敬遠するのは、楽譜どおり決まった音列を演奏する窮屈さにあるようだ。でも、バッハもモーツァルトも即興演奏の名手だった。多くの協奏曲にはソロが独りで腕を振るう見せ所(カデンツァ)があって、作曲者自身がカデンツァを楽譜を書き込むことも多いが、本来はソリストが曲の素材をもとにアドリブを披露する場だった。ただ即興演奏は才能と経験を要する高度な技術で、素人には敷居が高い。過去の大作曲家が楽曲を譜面に落としてくれたおかげで、一介の愛好家が不器用なりに弾いて嗜む喜びに浸ることができる。それでも、リズムのゆらぎとかフレーズの呼吸とか、音楽の心の機微は記号では到底表現しきれない。だから、同じ楽譜なのに弾き手によって驚くほど違う音楽が立ち現れる。譜面の余白に無限の自由度が息衝いている。自由の中に型があるのがジャズだとすれば、型の中に自由が染み込んでいるのがクラシックだ。

どこにも行けない不自由な毎日で曜日の感覚すら色褪せていく中、沈みがちな心が音楽で解き放たれ、束の間ふわっと自由になれる。ネット配信で極上の演奏を届けてくれるミュージシャンの皆さまに感謝しつつ、今日もライブのリンクをポチッと押す。

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番外編:コロナを吹っ飛ばせ [音楽]

Etude-Coronavirus.jpg譜面の表題は、Jeff DePaoliさんという人のアレンジなる『Coronavirus Etude』とある。見たところ何やら現代曲っぽいが、「For Piano and Disinfecting Wipe(ピアノと消毒ウェットタオルのために)」の副題がヒントで、ピアノ弾きなら「ああ、そういうことね」とニヤリとする仕掛けになっている。鍵盤中央付近で汚れが気になったらしいあたりとか、妙にリアルだ。

譜面を読み込むと、ありそうで存在しない音楽用語がそこかしこに紛れていて、相当に芸が細かい。冒頭のcol Purello(Purellは消毒液のブランドなので「消毒液を使って」か)、三段目のCloroxissimo(Cloroxは漂白剤ブランドなので「最大限ピカピカに」くらいの意味か)、最後から2小節目のsenza infeczione(感染しないで)、など。仕掛けの白眉は最終小節のseccoで、打楽器等の残響を止めて音を鋭く切る指示として使われる実在の音楽用語だ。ただし、ピアノ曲の譜面で見たことはない。イタリア語でもともと乾燥を意味する言葉(ワインの辛口を意味することもある)なので、消毒後の鍵盤を乾かせという指示らしい。Youtubeを検索すると実演版もいくつか出てくるが、演奏よりも譜面を眺めることを想定されたと思われる、マニアックで奥ゆかしいジョークである。

新型コロナで笑いを取るとは不謹慎な、と眉をひそめる向きもあるかも知れないが、暗い世相だからこそ、ちょっとヤバめのジョークで陰鬱とした気分を吹き飛ばしたい。

追記(3/16):冒頭の「Molto Rub-ato」(テンポを自由に揺らして弾く指示)中のハイフンに引っかかりつつスルーしていたが、Rub(こする)を浮かび上がらせていることに今気がついた。

追記2(8/23):ピアノの鍵盤をアルコール除菌することは、ひび割れの原因になったりとご法度なので、実演はおすすめしない。

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