SSブログ

象たちは何処へ [動物]

animal_stand_zou.png中国で象の一群が長旅に出て、話題を呼んでいる。中国に野生の象がいるのか、とまずそこに驚いたが、ミャンマーやラオスとの国境に近いシーサンパンナ自治州の自然保護区に、インドゾウの生息域があるそうだ。そこから何を思ったか10数頭の群れが北上を始め、1年以上かけて500kmを超える道のりを踏破した。今は昆明に接近中ということだが、彼らが一路どこを目指しているのか、誰にもわからない。象が棲家を離れかくも長距離を移動するのは前例がないそうで、ゾウの生態に詳しい専門家も軒並み首を傾げている。

象の群れが黙々とどこかに向かっていると初めて聞いたときは、何百頭もの巨体が森をバキバキなぎ倒しながら行進する光景を思い浮かべた。実際にはそんな大群ではないが、なんとなく大海嘯で猛進する王蟲の大群をイメージしたのである。腐海に入るたび防毒マスクが必須の『ナウシカ』の世界は、どこに行くのもマスクが手放せないコロナ禍とどこか通じるものがある。象の一群が旅を始めたのは昨年春ということで、世界で新型コロナの第一波が渦巻いていたまさにその頃である。象はひときわ知的で繊細な動物だというし、彼らなりの第六感で世界の異変を察知したか、と妄想してみたくなる。

『ナウシカ』の大海嘯で蟲たちが南下する先には、シュワの墓所と呼ばれる謎めいた施設がある。その正体は、かつて生命の改変製造すら意のままに操った高度な科学技術の粋が密かに伝わる、ヤバめの極秘機関だ。中国のゾウたちを駆り立てるのが大海嘯の予感だとすれば、彼らが向かう方角にはいったい何があるのか?試しに地図上でシーサンパンナから昆明の少し南辺りまで線を引いて、そのままずっと延長してみる。嘘だと思うならご自分で試してみると良いが、象の群れが目指す遥か先には、あの武漢市がある。

新型コロナが武漢ウイルス研究所から流出したとする説が再燃している。どちらの立場から見ても政治的な匂いが濃厚な話なので、雑音が多すぎて真相はわからない。しかし、仮にそこが私たちの世界に実在する「シュワの墓所」だったとしたら?未曾有のパンデミックといい、謎めいたゾウの大移動といい、今いったい世界で何が起きつつあるのか?人類は「墓所」で神聖不可侵の領域に手を出し、ついに神の逆鱗に触れたのか?

と盛り上げてみたが、象の群れは進路を南に反転したとの情報もある。つまるところ、家族総出でピクニックに出かけたら派手に道に迷い、あてどなく彷徨ううち1年経ってしまっただけかもしれない。今引き返しても家に帰るには更に一年かかるわけだが、彼らが無事に大旅行から帰還する頃には、腐海の臭気にやられたこの世界もすっかり元に戻っていて欲しい。

共通テーマ:日記・雑感

G7とオリンピック [政治・経済]

G7が東京オリパラにお墨付きを与えた、という話をよく聞く。嘘ではないが、たぶん日本以外ではほとんど報道されていない。もともと、オリパラはG7の関心事からは程遠い。25ページに及ぶG7コミュニケの一番末尾で、おまけのように2行ほど言及されているに過ぎない。安心安全の大会とかウイルスに打ち勝った証とか、どこかで聞いたフレーズがそのまま英語化されているので、日本政府が提案した作文がとくに推敲もされずそのまま載っている気配がある。どっちでもいいことにはとりあえず賛成しておいて得点を稼ぐのが政治の基本とすれば、菅総理以外のG7首脳にとって東京オリンピックは「やりたければやれば」程度の温度感だったのかなと推測する。

CornwallUK_graph.jpgそのG7が開催された英国コーンウォールで、いま新型コロナ感染が急拡大しているという。少し前から、イギリス全土で感染者数がじわじわぶり返していた。ワクチン接種が進んでいるとは言え、生活をもとに戻すペースを少し急ぎすぎたのかも知れない。社会全体の接種率が上がっても、(若年層など)未接種者の多い母集団が集まって盛り上がれば、容易に感染の温床になり得る。それはさておき、コーンウォール地方の感染拡大率はとりわけ顕著で、現地の人口あたり感染者数は英国の平均水準を超えた。これは、大規模な検査が始まった昨年5月以来初めての事態だと言う(右上グラフで赤線がコーンウォール地方、青線が英国平均。コーンウォールの新規感染者数は直近で跳ね上がっている。BBCサイトより)。

コーンウォールの感染拡大が果たしてG7と関連があるのか、見解が割れている。G7では各国随行員や警備スタッフやマスコミを含め、相当数の人が国内外から集結していたはずで、高リスクなイベントであったことは疑いない。実際、メルケル首相の警備要員の一部が滞在していたホテルのスタッフから感染者が出て、SPが自主隔離を余儀なくされた。感染者が見つかるのは検査体制が徹底している証と見ることもできるが、仮に体制が鉄壁でも検査精度は完璧ではない。当局はG7が感染源であった証拠はないとしており、実際のところ真相はわからないが、検査の網から漏れるウイルスはそもそも「証拠」に残らない。証拠の不在は不在の証拠ではないのである。

コーンウォールの案件は、来たるべきオリパラ感染対策の縮図を見ているようだ。オリンピックが始まって感染拡大が加速したら、「オリンピックが原因という証拠はない」と組織委がいかにも言い出しそうではないか。既に東京でリバウンドが始まったいう話もあるが、オリンピック開始前から新規感染者数が増加傾向にあれば、裏を返せばオリンピックが悪いわけではないと言い逃れができる。オリンピックの開催者側にとっては、予め徹底的に感染を抑え込んでしまうより、多少は手綱を緩めておいたほうがむしろ好都合ということになる。6月のうちに緊急事態宣言を解除したのはそんな思惑があるのでは、と邪推してみたくなる。

ウガンダ選手団で入国時に一人陽性者が見つかった。これ自体は、検査ルーチンが回っている証左である。しかし濃厚接触者の判定をする前に関係者を普通に移動させてしまい、その中からもう一人陽性者が出た。これは明らかに対策運用の不備だ。天皇陛下が不安を表明されるのも無理はない。今後次から次へと選手団がやって来るが、本当に水際の「おもてなし」は大丈夫なのか。1万人+五輪貴族の話とか、酒販売をやると言ったりやめると言ったり、組織委はスポンサーのおもてなしだけは抜かりがない。ゴマすりも結構だが、もっと大事な仕事はちゃんとやってほしい。

共通テーマ:日記・雑感

ワクチンを打たない権利 [社会]

コロナワクチン接種に消極的な人が、日本にも一定数いる。副反応への不安が、気後れする原因の一つのようである。大抵の副反応は痛みや発熱の類で数日で全快するが、稀に重篤な症例が現れる。お父上を見舞った重い副反応を報告した男性のSNSが、さまざまな反響を呼んだらしい。重大事案の情報共有はもちろん大事だが、大多数の副反応は普通すぎてニュースにならないから、目につく情報だけをつまみ食いすると不安は増す一方かもしれない。

どのような事例がどのくらいの確率で起こるのか、行政主導できちんとデータをまとめたほうがいい。例えばアナフィラキシー・ショックについては、ファイザーやモデルナのワクチンでは10万に1回未満とされる。一方、コロナで亡くなった人は日本国内で1万4千人くらいで、1万人に1人だ。既往歴のある人を除けば、アナフィラキシーが怖いからワクチンを打たないという選択にあまり合理性はない。

ワクチンは自分自身を感染から守るほか、社会全体への感染拡大を抑制する効果が期待される。7-8割の人が打てば集団免疫が成立するというから、自分は打たずに残りの2-3割に入ればよい、というタダ乗りの発想もあり得る。ただ日和見主義の人が多すぎると集団免疫に届かないので、「囚人のジレンマ」のような話になる。絶対にワクチンを打ちたくないという人の中には、副反応がどうしても不安な人のほか、各種ワクチン陰謀論を真に受けている人もいる。不安であることは罪ではないし、わけのわからない迷信を信じる自由も保証されているから、ワクチンを打たない権利はもちろん認められる。

kitsuenjo_mark.pngここでちょっと喫煙の話をしたい。タバコは自分自身に対する健康リスクであると同時に、周りにいる人に受動喫煙の害を及ぼす。それで今では、喫煙が許されるスペースはかなり限定されている。飛行機の中など、タバコを一切認められない空間もある。喫煙の権利は憲法が保証する基本的人権に含まれるか、という話は真面目な法律論として議論があるようだが、嫌煙家の権利も絡むからややこしい。大半のスモーカーは社会の決まりごとを受け入れ、吸いたくなったら人目を忍ぶように喫煙スペースに直行していると思う。その肩身の狭さが、タバコを隠れて吸う中学生をちょっと思わせる。

ワクチンを打たないことは、選択の自由であると同時に、社会全体の感染抑止に参加しない未必の故意でもある。個人の権利と公共の利益をどう両立させるかという緊張関係が、どこか喫煙者の権利問題に相通じる。ワクチンパスポートに異を唱える人の中にワクチン差別を口にする人がいるが、それを言うなら狭い喫煙室に押し込まれるスモーカーたちは謂わばニコチン差別か。でも喫煙者を社会の差別から守れと声を上げる人は、(当事者たちの悲哀に満ちたボヤキを別にすれば)ほとんど見当たらない。

共通テーマ:日記・雑感

梅雨どきの夕焼け [科学・技術]

sora_yuuyake.png梅雨のさなか、ジメジメした日が多い。でも、雲の合間からふと陽が差して美しい虹が立ち昇ったりとか、雨の多い時期ならではちょっとしたイベントにも巡り合う。そんな季節柄のせいか、先日TVニュースのお天気コーナーで「今日の夕焼けが綺麗だったのは豊富な水蒸気のおかげです」のような解説が飛び出し、びっくりした。いつからそんな俗説がまかり通っているのか。調べてみると、ウェザーニュースのサイトにイラスト付きでそんな解説があり、ご丁寧に「水蒸気により光線が散乱される」と説明が入っている。他にも、湿気た日は夕焼けや朝焼けが美しいと断言するサイトがちらほら見つかった。もしこれが試験の解答だったら、0点ではないにせよ大幅減点は免れない。

太陽光が地球大気を通過するとき、ビリヤードのブレイクショットのように大気を構成する分子に散乱される。散乱体が光の波長よりうんと小さい場合はレイリー散乱と呼ばれ、青や紫のように波長の短い光ほど強く散乱される特徴がある。そのおかげで日中の空は青く見え、逆に大気を斜めに延々と通過する過程で最後まで散乱されず残った赤い光が、夕焼けや朝焼けの色として私たちの目に届く。ここまでは、大抵のサイトで正しく解説されている。

しかし大気分子の大半は窒素と酸素なので、夕陽の色を演出する立役者も基本的には窒素分子と酸素分子である。水蒸気ももちろん太陽光を散乱するが、大気中で水蒸気が占める割合は体積比でせいぜい数%に過ぎない。水蒸気量の高低があっても2%が3%になるかといった程度の微小なブレに過ぎず、目に見えて夕焼けの色が変化するとは思えない。ウェザーニュースのサイトは信頼できる情報源として利用する人も多いと思うので、老婆心ながらイラストと解説を修正しておいた方が良いのではないか。

米国のメディアがアメリカ海洋大気庁(NOAA)の専門家に取材した解説記事が面白い(Why sunsets are better in the winter)。なぜ夕焼けは冬のほうが素晴らしいのか、というお題だが、空気が「乾燥」していることをその要因の一つに挙げている。大気中にはエアロゾルと呼ばれるチリ各種が漂っているが、親水性のエアロゾルは水分を含むとブクブクと膨れる。エアロゾルも分子同様に太陽光を散乱するのだが、レイリー散乱が成り立つのは粒子が小さいときだけで、粒子が光の波長より大きくなると散乱時に色を選別する作用が弱まる。湿気た大気はチリの粒を太らせる結果、むしろ夕焼けの赤色を濁らせてしまうのである。だから実際には、水蒸気はむしろ夕焼けの邪魔者ということになる。

雲や雨の水滴は可視光の波長よりずっと大きいので、特殊な観測条件が整ったときだけ出現する虹のような光学現象を別とすれば、基本的には雲粒や雨粒は散乱光の色をまったく選別しない(だから雲は白く見える)。従って雲粒自体に夕焼けの色を強める効果はないが、夕空に雲が適度にかかっていると、赤い陽射しを照リ返し絶妙な夕焼けを演出する。湿った大気ほど雲が発生しやすいとすれば、間接的な因果関係としては水蒸気が多いと夕焼けがドラマチックになる、という議論も一応は成立する。

そもそも、どんな夕焼けを素晴らしいとするかは個人的な美学の問題だ。「夕焼けが綺麗に見える気象条件は何か」という問い自体、半ば科学だが半ば哲学論争であって、考え始めると奥が深い。

共通テーマ:日記・雑感

ワクチンとマスク [科学・技術]

medical_mask_shinpai_doctor_man.pngアメリカでは、新型コロナワクチン接種を終え2週間経った人は大抵の場所(公共交通機関除く)でマスクはしなくて良いとCDCが宣言するに至った。ところが日本では、専門家がまるで違うことを言う。ワクチンの効用は完璧ではないので、集団免疫が成立するくらい接種が普及するまではマスク着用をお願いします、という類の忠告を幾度となく聞かされた。どちらの言い分が正しいのか?単純な理屈で考えれば、日本の(一部の)専門家がおっしゃることは、今ひとつ筋が通らない。

症状がないのにマスクをしないといけないのは、新型コロナには無症状の感染者が一定数おり、無自覚に飛沫感染を広げてしまう恐れがあるからだ。しかし2回接種後一定期間を経た人の感染リスクは、十分低い(ウイルスが体内に入ってきても増殖する前に免疫システムが退治してくれる)。本人が感染しなければ他人にうつす可能性もないから、マスクの必要はなさそうである。

たしかに当初は、ワクチンは重症化を防ぐが感染防止の効果は不明とされていた。しかしデータが揃った今では、感染抑止に十分効くことがわかっている。研究によって数値は多少ばらつくが、2回目接種を終えて1週間たつと、感染が80~90%程度(研究によってはそれ以上)抑制されるようである(山中教授のまとめ)。ワクチンを打たなければ10人感染する状況で、全員ワクチンが済んでいれば1人か2人で済むということになる。ファイザーのワクチンは、変異株にも90%以上の効果があるという話だ(もう一人の山中教授の研究)。運悪く感染してしまう1~2人も、重症化の恐れは未接種者よりずっと低い。

いま感染者が10人いたとして、全員がマスクを着用しているとしよう。不織布マスクは、吐き出す飛沫を20%程度にまで抑えるという研究がある(豊橋技術科学大学のサイト)。マスク着用の10人が、合わせて2人分の飛沫を飛ばしていることにになる。面白いことに、10人中2人程度という割合は、ワクチンの感染予防効果とほぼ同じか、むしろ高いくらいだ。つまり、接種済みの人がノーマスクで行動する感染拡大リスクは、未接種の人が全員マスク着用で行動する模範的対策の状況と変わらないし、どちらかといえばより安全と言ってもいい。やはり、接種が済んだ人にマスク着用を要求する理由が見当たらない。

ただし、今のところ日本にはワクチンパスポートのような制度がないので、接種を終えたことを公的に証明する手段がない。仮に接種完了者にだけマスクを免除しても、自己申告に頼らざるを得ない。ワクチンを打ったふりをする不届きな輩も出てくるだろう。それを誤差のうちと寛容に受け入れるのか、けしからんと眉をひそめるか。生真面目な日本社会だから、ワクチン警察とかいろいろ出没しそうである。ワクチンとマスクをめぐる専門家の言葉にあまりサイエンスを感じないのは、彼らがその辺りの空気も読んで喋っているせいかも知れない。

共通テーマ:日記・雑感

はらぺこバッハ [文学]

plant_onshitsu_shokubutsuen_chou.png毎日新聞が『はらぺこあおむし』をパロったIOC批判の風刺画を掲載し、絵本を出版する偕成社からこっぴどく叱られた(社長名で出された声明)。IOCの強欲ぶりを食欲満点のアオムシになぞらえたことが、出版元の機嫌をえらく損ねたようである。風刺画そのもの出来栄えはさておき、偕成社の怒りっぷりが並大抵でないので、失礼ながらそちらのほうに笑ってしまった。

いちばん可笑しかったのは、「『はらぺこあおむし』の楽しさは、あおむしのどこまでも健康的な食欲と、それに共感する子どもたち自身の「食べたい、成長したい」という欲求にあると思っています」というくだりである。絵本を読みながら、嗚呼あおむしのように食べ成長したいなどと感動する子供が、いったいどこにいるんだろう?

この本は装丁に色々工夫があって、大きさの違うページをめくったり戻したり、虫食い穴に指を突っ込んだり、まずは身体感覚を刺激する。そして、日を重ねる度に増えていく食べ物とか、食べ過ぎて丸々と膨れたあおむしとか、最後にページいっぱいに羽ばたく極彩色の蝶とか、物語のリズムや溢れる色彩が独特だ。それだけで十分な魅力なのに、「子どもたち自身の食べたい、成長したいという欲求」などと妙に立派な理屈を持ち出してきたところが、残念である。

私は小さい頃、『のろまなローラー』という絵本の大ファンだった。たぶん今でも書店に並んでいると思う。道路工事で舗装に使われるあの重機が主人公である。黙々と仕事をこなすローラーだが、他の車から追い抜きざまにノロマぶりをバカにされる。しかしローラーがのろのろと山道に差し掛かると、追い抜いていった車が軒並み荒れた路面でパンクし困り果てている。一台一台に励ましの声を掛けながら、舗装作業を続けるローラー。やがて復旧した車が追いついて来て、今度はローラーの仕事ぶりに感謝を述べて走り抜けていく。

『のろまなローラー』のメッセージは明らかだ。歩みは遅いが効率では図れない仕事の価値。人に顧みられずともコツコツ努力を続ける尊さ。冷たい言葉を浴びせた相手にすら惜しまない思いやり。いずれもこの絵本が読み継がれる所以だとは思うが、所詮は大人目線の哲学でしかない。幼い私が『のろまなローラー』を愛読していた理由は、何よりも「ごろごろ ごろごろ ローラーは」といった言葉の響きやリズムが好きだったのである。運動音痴でトロかった自分を肯定してくれるような安心感も、手伝っていたかもしれない。いずれにせよ、子供が絵本を楽しむのに高尚な動機など必要ない。

偕成社が『はらぺこあおむし』に並々ならぬ愛着をお持ちなことはよくわかる。しかし残念なのは、出版元自ら『あおむし』の解釈を一方的に押し付けていることである。あおむしの顔にIOCバッハ会長をはめ込み、あおむしの「健康的な食欲」に飽くなき金銭欲を引っ掛けた毎日新聞は、下品と言えば確かに下品だ。でも『あおむし』を読む子供の中には、コイツは食べてばかりで困ったやつだと感じる子もいるかも知れないし、それはそれで構わない。数字や曜日を覚えるのにうってつけの本という親の賛辞も聞こえてくるが、絵本は絵本であって教科書ではない。先日他界した作者エリック・カール氏の意図は今や知る由もないが、小賢しい大人の読み方を強要するような人ではたぶんなかったのではないか。

繰り返すが、毎日新聞の風刺画が秀逸とは別に思わない。しかし偕成社の方も、毎日を名指しして「不勉強、センスの無さを露呈」とか「猛省を求めたい」とか言葉がいちいち刺々しい。あのおおらかな『あおむし』の世界と、まるで似つかわしくない。大した事件ではないが、やはりいろいろ残念である。

共通テーマ:日記・雑感

動物の眼 [動物]

ミナミジサイチョウ(南地犀鳥と書く)というアフリカ原産の鳥がペットショップから逃げ出し、連れ戻された。ペットショップということはペット需要があるということだが、こんな大きな鳥を狭い日本家屋でどうやって飼えばよいのか?それはともかく、逃走後一年半ぶりの帰還だそうである。鳥は顔の左右に目がついていて視野角が広く、どこから近づいても見られてしまうので捕まえるのが大変だと聞いた。実際、捕獲成功まで何度も失敗を繰り返したようである。

鳥は眼が左右についていると書いたが、猛禽類だけは眼光鋭く視線が正面を向いている。ワシやタカがペットショップにいるのか知らないが(鷹匠専門ショップとかあれば別だが)、フクロウを好きな人は多いのではないか。フクロウカフェなるビジネスが成立するくらいである。フクロウ人気の理由は、人間並にペタっと平たい顔に親近感を覚えるせいもあるかと思うが、眼が前を向いていることも大事な要素だ。

animal_dog_front.pngあなたは犬派?猫派?などと聞かれることがあるように、犬と猫は飼いたい動物のランキング最上位で人気を二分する。人にとってはどちらも愛くるしいペットだが、犬も猫も自然界では食物連鎖の頂点に君臨する肉食獣の仲間だ。なぜ人は捕食動物にかくもメロメロになるのか?これもやはり、目が顔の前に付いているからである。

目が同じ方向に向いていると、両眼視野(両目で同時に見える範囲)が広い。すると、立体視の要領で距離を測ることができる。捕食動物は、獲物の位置を正確に捉え追跡しないといけないから、これは大切な能力だ。ヒトを含む霊長類も、目が顔の前面に並んでいる。犬や猫がこちらを振り返りじっと見つめてくると、ピタリと視線が噛み合う。だから、心が通じ合うような気がする。

ウサギの両目は、多くの鳥と同じように顔の側面についている。そのおかげでウサギの単眼視野は両目合わせて360度近くをカバーすると言われ、どこから敵が近づいて来ても見逃さない。その代わり、両眼を同時に使える視野はとても狭い。草食動物にとって、正面のターゲットに照準を合わせるよりも、どこから現れるかわからない外敵を察知するほうが優先度が高い。ウサギにとって目の前に佇む人間は、魚眼レンズのように広い視野に紛れる風景の一部に過ぎない。そのせいで、正面から見るとウサギの視線を捉えることが難しい。目が合わないので、彼らが何を考えているのか、今ひとつつかみづらい。

ハムスターは犬猫とウサギの中間で、視野角は270度くらいだそうである。ウサギよりは両目がちょっと前よりに付いているが、犬や猫ほど視線がロックオンしない。こちらを見ているような見ていないような、ちょっとすっとぼけた佇まいに、独特の愛嬌がある。それはそれでもちろん可愛らしいのだが、犬や猫にじっと見つめられた時のトキメキにはどうしても敵わない。「この子は私を見つめ私のことを想っている」と(飼い主の勝手な思い込みであれ)確信できるからこそ、そこに強い絆が育まれるわけだから。

共通テーマ:日記・雑感

クララとお日さま [文学]

yuuyake_yama.png『クララとお日さま(Klara and the Sun)』は、カズオ・イシグロが6年ぶりに上梓した新作長編である。もともと寡作な作家だが、その代わり作品一つ一つの密度と完成度が半端ない。前作『忘れられた巨人(The Buried Giant)』では、忘却の霧に沈みゆくアーサー王伝説後の世界を舞台に、仲睦まじい老夫婦の心深くに眠る孤独の闇をえぐり出した。『クララ・・・』はというと、差別や遺伝子改変技術といった社会の課題を横軸として、家族や隣人のあいだに交錯する複雑な感情を丁寧に見つめる。SFやファンタジーの設定を借りつつ、身近で普遍的な人間関係の軋みを描くのが、ここ10年ほどのイシグロ小説(二つだけだが)のテーマのようである。

イシグロ作品の登場人物は、たいてい自我が強くてとげとげしい。表向き人当たりが良くても、往々にして内心は頑固で自己中心的だ。それは『クララとお日さま』でも例外ではないが、主人公のクララだけは一貫して冷静沈着で他意がない異色のキャラである。作者がクララだけに異例の特権を与えたのは、彼女がそもそも人間ではないからだ。

クララはAF(Artificial Friend)と呼ばれるアンドロイドの少女である。ショップの窓から垣間見える世界の一角を、日々観察するクララ。知的で洞察力に優れながら、その一方で世界を独特な「常識」で捉えている。太陽光発電で動作する彼女は、生身の人間も同じように陽射しを糧に命をつないでいると信じている。ある日クララは、病弱な少女ジョジーの話し相手として買い取られる(『アルプスの少女』のハイジとクララの関係に少し似ているが「クララ」の立場が逆転している)。クララはジョジーを不治の病から救うため、太陽を相手に取引を持ちかける奇矯な計画をひそかに温める。

AFの存在が当たり前の近未来世界だが、アンドロイドに向けられる人々の眼差しはしばしば冷たくぎこちない。しかし怒りや憎悪の情動をプログラミングされていないクララは、露骨な仕打ちすら淡々と受け止める。時折クララの認知機能に一時的な障害が生じ、彼女の視覚が奇妙に歪む。しかしストレスやパニックという概念を知らないクララは、明らかな機能不全すら慌てる素振りも見せない。クララの一人称で語られる物語は、早朝の湖面に映し出される大自然の風景のように、澄みわたった静けさに満ちている。

だが読者はやがて、そんな水面にさざ波を掻き立てる不穏な風向きを感じ取る。隣家に住むボーイフレンドのリックとジョジーを隔てる「階層」の壁。その壁に抜け穴を穿とうと企むリックの母。別居するジョジーの父と母を分かつ価値観の溝。そして、ジョジーの母がクララを手に入れた本当の理由。ジョジーとリック、リックと母、母とジョジー、人間たちがエゴと表裏一体の愛情に傷つき苦しむ傍らで、クララはひとり純粋で無償の友情を貫こうとする。イシグロ作品の常として過剰な演出を拝した静謐な物語だが、終盤思わぬできごとが春先の突風のように訪れる。仰々しい仕掛けは何もないのに、そのクライマックスが言葉を失うほど神々しい。

『クララとお日さま』の結末は果たしてハッピーエンドか?どの登場人物に肩入れするかで、たぶんその印象は変わるだろう。作品の舞台はクララにとって決して幸福な世界ではないが、それでも彼女の独白は相変わらず物静かで、取り乱すことはない。でもカズオ・イシグロが創り出したAFは、無私無欲の聖人ではないし、無機質なロボットでもない。最終章までたどり着いた読者は、明鏡止水のごときクララの語り口が隠しきれない、彼女のかすかな心の震えに気付くかも知れない。

共通テーマ:日記・雑感

怒りとは理解の不足である [スポーツ]

sport_tennis_set.png大阪なおみ選手が、全仏オープンの試合後会見への出席を拒否して話題を呼んでいる。同じような質問ばかり繰り返され、ときに悪意を感じるような会見の場に辟易としているようだ。彼女のTwitterの一部がこれだ。

We’re often sat there and asked questions that we’ve been asked multiple times before or asked questions that bring doubt into our minds and I am not going to subject myself to people who doubt me.

最後の部分は「私を信じない人たちを前に自分をさらし者にはしない」のようなニュアンスか。私は普段テニスを観ないので、彼女(や他の選手)が会見の場でどんな嫌な思いを経験してきたのか具体的には知らない。だがこの顛末で何となく思い出したのは、今や懐かしいトランプ元大統領である。在職中のトランプ氏は、記者会見で意に沿わない質問が出るたびヘソを曲げて相手をフェイクニュース呼ばわりし、Twitterで一方的に発信することを好んだ。二人を同列に並べるつもりはないが、トランプ元大統領が大阪さんのツイートを読んだら、きっと我が意を得たりと膝を叩くのではないか。

オリンピックはそれを観る人が支えている、という話を少し前に書いた。プロテニス界も同じだと思う。大会の賞金や高額のスポンサー料は、そこに巨大市場があるからこそ存在する。もちろん、試合そのものはストイックな真剣勝負の場だから、純粋にスポ根だけをグランドスラムに求める硬派なテニスマニアも少なくないだろう。しかし、コートの外を含めた選手の人間像に触れたいファンは、たぶんもっと多い。試合後の会見は、そんな「市場」と選手をつなぐインターフェースである。たしかに、負けた選手に追い討ちをかけるような質問も出るかもしれない。しかし選手の心情を理解しないメディアに向き合うのも、有り体に言えばプロ選手の「仕事のうち」ではないか。

ここまで書いたところで、大阪選手が全仏オープンの途中辞退を決めたというニュースが入ってきた。長文のツイートで、彼女自身が患った鬱の苦しさも吐露している。自分の気持ちや意見を率直に表明するのは彼女の美点だと思うし、繊細で傷つきやすいことを責めようとは思わない。しかし大阪選手自身、彼女の社会的影響力の大きさをまだ測りかねているのだろうかとも思う。大阪選手の年収が女性アスリートで世界トップに躍り出たというニュースが駆け巡ったばかりだ。世界のあらゆるトップ・アスリートと同じように、彼女の存在もまた巨大マーケットの歯車とともに回り支えられている事実は、否定しようがない。

大阪選手が呟いたちょっと意味深なツイートに惹かれる。

anger is a lack of understanding. change makes people uncomfortable.

怒りとは理解の不足である。人は変化に馴染みたがらない。シンプルな金言だと思うが、それなら大阪さん自身が表明した「怒り」も、彼女の理解不足に端を発しているとも言える。聡明な人だから、一人のアスリートとしての矜持と彼女が依存する市場原理のあいだで軋む矛盾のはざまに、じきに落とし所を見出すことを期待している。

共通テーマ:日記・雑感